「蓄えや重宝を持ち出せず」逃げた安土の民衆〜冷たい明智への視線・山岡景隆「信長公の御恩は浅くはない」・光秀要請突っぱねた山岡兄弟〜|本能寺の変16・信長公記23

前回は「織田信長の「跡追い自害」決行した武士たち〜慕う家臣が多数いた信長・突然「消された」織田信長信忠父子・明智軍の強化急いだ斎藤利三〜」の話でした。

目次

山岡景隆「信長公の御恩は浅くはない」:光秀要請突っぱねた山岡兄弟

New Historical Voyage
信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)
信長公記

信長の跡を追って、
切腹した。

信長公記

本当に、「道義に比べれば命は軽い」というのは、
このようなことを言うのである。

「本能寺」を聞き、明智方に組みすことを恥として、信長の跡追い自害した松野平介。

信長公記

信長が自害した、
と聞いて、

信長公記

立派に切腹を
した。

代々の御家人とされる土方次郎兵衛もまた、跡追い自害しました。

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織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

「織田四天王」によって、確実に、着実に天下統一に向かっていた織田家。

ところが、「誰も考えなかった」光秀の突然の謀反によって、織田家は一気に瓦解してしまいました。

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安土城天主 信長の館(新歴史紀行)

そして、場面は安土城に移ります。

信長公記

六月二日辰の刻、信長父子・一門及び
歴々の家臣たちを打ち果たして、

信長公記

明智光秀は、

明智光秀

逃げのびた者がいるだろうから、
家々を捜せ。

信長公記

と、
命じた。

信長公記

兵たちが洛中の
町屋に踏み込んで、

信長公記

落人を探索する様子は、
目も与えられぬほどだった。

信長公記

都の騒ぎは大変な
ものだった。

信長公記

その後、明智光秀は、近江の軍勢が
攻め上がってくるだろうと考え、

信長公記

その日、京都から直ちに
勢田に軍を進め、

信長公記

勢田城主山岡景隆・山岡景佐
兄弟に、

明智光秀

人質を出し、
明智方に協力せよ。

信長公記

と申し入れた。
すると、山岡兄弟は、

山岡景隆

信長公の御恩は
浅くはない。

山岡景隆

ありがたいことと思っているので、
どうにも御協力はできかねる。

信長公記

と答えて、勢田の橋を焼き落とし、
居城に火をつけ、山中へ退去した。

勢田の山岡景隆に関しては、「瀬田」の表記も見受けられます。

いずれにしても、「反逆者・光秀」の誘いをキッパリ断り、明智に反する行動を堂々と実行した山岡。

明智光秀

・・・・・

「蓄えや重宝を持ち出せず」逃げた安土の民衆:冷たい明智への視線

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安土城から琵琶湖を望む(新歴史紀行)
信長公記

こうして、明智光秀は、
新手の軍勢を加えることが出来ず、

信長公記

勢田の橋際に陣を構えて、
守備の部隊を置き、自身は坂本に帰陣した。

信長公記には、光秀と山岡兄弟の元々の関係は触れられていません。

1571年の延暦寺焼き討ち直後に、近江・坂本に五万石を信長から拝領した明智光秀。

延暦寺訪問に関する話を、上記リンクでご紹介してします。

つまり、「本能寺」時点では、近江周辺に勢力を張って十年以上経過していました。

その後、丹波を拝領し、後世「近畿管領」とまで称されることもあった明智光秀。

対して、近江・勢田に勢力を持っていた地侍・山岡景隆兄弟は、明らかに「格下」でした。

この観点から考えれば、「どう考えても光秀に協力するはず」だった山岡兄弟。

それにも関わらず、

山岡景隆

信長公の御恩は
浅くはない!

山岡景隆は、男らしく、光秀の軍門に下ることを峻拒し、あまつさえ勢田の橋を焼いてしまいました。

明智光秀

・・・・・

この辺りで、光秀は、自身への風当たりが「想定していたより強い」ことに気づいたでしょう。

信長公記

六月二日巳の刻、安土には
風の便りに、

信長公記

明智光秀が謀反を起こし、
信長・信忠父子・一門、

信長公記

その他家臣たちが切腹した、
という噂が聞こえてきた。

「人の噂も・・・」という言葉がありますが、「本能寺」は瞬く間に噂に広がったようです。

信長公記

上の者も下の者も、
この噂を聞いたが、

安土の人々

うっかりしたことを
自分から言い出しては大変だ・・・

信長公記

と考えて、初めのうちは
目と目を見合わせて用心していたが、

信長公記

次第に
大変な騒ぎになった。

信長の本拠地であり、出来たばかりの街であった安土。

その安土の民衆にとって、信長は単なる主人を超えた、神のような存在だったでしょう。

そして、安土に突如上った「明智光秀が謀反を起こし、信長・信忠父子その他切腹」の噂。

徐々に、そして一気に安土の街が恐慌状態となったことを、信長公記は粛々と描いています。

信長公記

こうなると、
自分一身の身の処し方に取り紛れて。

信長公記

泣き悲しむ者も
ない。

信長公記

常日頃の蓄えや、重宝の道具類も
持ち出せず、家を捨て、妻子だけを引き連れて、

信長公記

美濃・尾張の人々は本国を
目指して、

信長公記

思い思いに
退去して行った。

元々は、「尾張か美濃出身」だった人が大勢いた安土の民衆たち。

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織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

すぐ近くの京都に反逆者・明智光秀が率いる明智軍の大軍勢がいるため、逃げるしかありません。

そのため、本拠地である美濃や尾張に逃げるのは当然でした。

ここで、注目は「蓄えや重宝の道具類も持ち出せず」という、信長公記の記述です。

まさに「取るものもとりあえず」だった安土の民衆たち。

信長が築いた「平安楽土の地」であった安土。

安土の民衆たちは、覇王・信長を突然消した明智軍に「びっくり仰天」を超えて、逃げ惑いました。

新歴史紀行

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