前回は「信忠に従って最後まで斬り死した小姓・武将の実名〜「完全に消えた」信長の遺体の謎〜御殿放火は信長側+明智軍双方?・太田牛一の情報力〜」の話でした。
信忠近侍たちを「張良と樊噲」と礼賛した牛一:町屋から信忠お供へ

信長公記猪子高就・福富秀勝・野々村正成・篠川兵庫頭・
下石頼重・毛利良勝・赤座永兼・団忠直・・・



坂井越中守・桜木伝七・逆川甚五郎・服部小藤太・小沢六郎三郎・
服部六兵衛・水野九蔵・・・



山口半四郎・坂伝三郎・斎藤新五・
河野善四郎・寺田善右衛門、その他、



それぞれ次々と打って出て、
切り殺し斬り殺されつつ、我劣らじと戦った。
本能寺に続き、明智軍に二条御所を囲まれた織田信忠。



敵味方互いに知り知られる間の
戦いなので、刀の切先から火を噴くようで・・・



まったく、張良が知力を発揮し、
樊噲が威力を振るったのにも劣らぬほどであった。
ここで、信長公記では「張良と樊噲」が登場しました。
当時の戦国を生きる人々にとっては、中国の兵書は「必須の基礎知識」でした。
ここで、信忠近侍の小姓・武将たちを「張良と樊噲」に例え、最大級の賛辞を送った太田牛一。



各人それぞれの
手柄があった。
そして、大いなる手柄があったことを明記して、賞賛しました。



その中で、小沢六郎三郎は
烏帽子屋の町家に寄宿していた。



信長が自害したと
聞き、



ならば、信忠卿の
御座所へ行き、お供をしよう!



と言った。
宿の亭主をはじめ隣家の者たちも駆けつけて、



二条の御所もすでに敵方が
取り囲んでおりますから、お入りにはなれません。



きっと最後までお隠しいたし、
お助けいたしますから、ここからお立ち退きなさい。



といろいろ
説得した。



けれども小沢は聞き入れず、
明智勢の味方のように装って・・・



槍を担ぎ、町通りを二条へ
上って行った。



亭主や隣家の者たちは名残惜しく思い、
後を追いかけて見送っていると・・・



小沢は御所へ
駆け込んだ。



信忠に挨拶をして、
その後、表門の守備についた。



守備の者たちは力を合わせ、
次々と打って出た。



各人の活躍ぶりは、
誠に言いようもなく見事なものであった。
とにかく、「その場で見ていた」ような緻密な描写をした太田牛一。
これらの話は「後で聞き取った」と考えますが、太田は、実に実に丁寧に記録に残しました。
信長の信忠への大いなる期待:信長小姓より多い信忠小姓


一時は荒れ果てていた京都は、信長によって再興され、落ち着いた都となっていました。
ところが、明智叛逆によって、一気に京都は騒然とする状況となりました。



かれこれするうちに、
敵は近衛前久邸の屋根に上がり・・・



御所を見下ろす位置から弓と
鉄砲で攻め立てた。



負傷者・死者が数多く出て、
戦う者はしだいに少なくなった。



ついに敵は御所に突入し、
建物に火を放った。



信忠は、





私が腹を切ったら、縁の板を引きはがし、
遺体を床下へ入れて隠せ。



と言い、解釈は
鎌田新介に命じた。



一門の人々、主だった家の子・郎等らが
枕を並べて討ち死にし・・・



遺体が散乱している有様を見て、
哀れに思った。
本能寺の戦い同様、二条御所の戦いもまた、「見ていた」かのような緻密な描写をする太田牛一。



・・・・・
つい昨日までは、と言うよりも、つい数時間前までは「覇王・織田家の次期当主」だった信忠。
2,3年後には、確実に「日本の王」となる信長の後継者であった信忠。
信忠の、この時の気持ちを推しはかるのは難しいです。
信忠に対する評価は様々なですが、少なくとも一定以上の能力をもっていた人物でした。
その信忠にしても、「状況の的確な理解」は極めて困難だったはずでした。



信忠の身近くまで
建物は燃えてきた。



ついに信忠は切腹し、
鎌田新介が是非もなく首を打ち落とした。



遺命の通りに信忠の遺体は隠しておき、
後に荼毘に付した。



哀れな有様は、
見るのも辛いことであった。



ここで、討ち死にした人々は、
織田長利・織田勝長・織田勘七郎・織田元秀・織田小藤次・・・



菅屋長頼・菅屋勝次郎・猪子高就・村井貞勝・村井清次・
服部小藤太・永井新太郎・野々村正成・篠川兵庫頭・・・
とにかく、緻密な描写に加え、人名を克明に記録した太田牛一。
織田信忠と共に討ち死にした側近の名前は、まだまだ続きますが、ここで省略します。
重要な点は、信長と共に討ち死にした人物より、信忠と共に討ち死にした人物の方が多いことです。
信長・信忠共に「完全に想定外」の事態でしたが、信長は信忠に多数の側近を付けていました。
そして、自らの側近の数を超える側近を信忠に付けていた理由。
それは、信長が「信忠を次期後継者として、明確に織田家の中心に据えていた」のでしょう。





余は、戦国の覇王であり、
第六天魔王である織田信長だ!



余が、戦国の世を治め、
我が国の新たな国家の基盤をつくる!



そして、その新たな日本は
我が長男・信忠が率いるのだ!
この頃の「信長の描いた未来像」は諸説あり、定かではありません。
この「信忠の側近の数の多さ」を考えると、既に信長が確実に想定していたように考えます。
「信忠中心の未来」を。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) |
| 織田信長 | 1534年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 織田信忠 | 1557年 |
当時、数え年で49歳であった信長に対して、信忠は26歳の生き生きした若者でした。


そして、「桶狭間」の時に27歳だった信長は、ほぼ同年齢だった信長に大いなる期待をしていたでしょう。
この「信長の信忠への大いなる期待」が、小姓の数にも表れていました。
ところが、「信長の思い」は、明智光秀によって、突然に、完全に、破壊されてしまいました。

