前回は「明智光秀の「謀反の根拠づくり」の「創作」=「信長の光秀足蹴」〜フロイス「安土城に次ぐ」坂本城・客観性が高いフロイス「日本史」〜」の話でした。
明智光秀「本能寺動員兵力」の謎:フロイス「七、八千」vs「一万三千」

ルイス・フロイスが描く本能寺の変。
Froisあるいは、(おそらくこの方がより確実だと思われるが)
その過度の利欲と野心が募りに募り・・・



ついには、それが天下の主人になることを彼に
望ませるまでになったのかも知れない。
有名な「信長の明智足蹴事件」は、光秀が自ら広めた「謀反の根拠」であると主張しています。
筆者は、フロイスのこの視点が「正しい」と考えます。



ともかく、彼は、それを
胸中深く秘めながら・・・



企てた陰謀を果たす適当な時期を
ひたすら窺っていたのである。
とにかく、「陰険極まりない明智光秀」という描写をするフロイス。
確かに、「本能寺前後」及び「本能寺の変」の状況を考えれば、確かに光秀は「単なる悪」でした。



そして、彼は、特に安土で信長から
毛利との戦いにおける羽柴を援助するため・・・



七、八千の兵を率いて、
直ちに出動を命ぜられた武将の一人であった。
ここで、兵士数に注目です。
一般的には、光秀は、本能寺の変当時「一万三千人ほどを率いた」という説が有力です。
その一方で、フロイスは「七、八千の兵」と描写しており、だいぶ人数が異なります。
とにかく、西洋人らしい客観的な描写であるフロイスの記述。
フロイスの記述においては、何事も数量が極めて緻密に記録されています。



信長がすでに破壊した比叡の山の大学(延暦寺)の全収入
-それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した-
フロイスによる明智光秀の領土・経済力を計算すると、
「明智領=丹波27万石+丹後11万石+近江坂本5万石+延暦寺の利権15〜20万石=58〜63万石」です。
光秀の経済力に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
当時「4万石で動員1,000人」だったため、「58〜63万石」ならば、「一万三千動員」は納得です。
その一方で、緻密な描写をし、当時、本能寺付近にいたフロイス。
フロイスの描く「七、八千」と、一般的な「一万三千」はどちらが正しいのでしょうか。
数量の整合性が高いフロイスの記述:確実で合理的な西洋的視点





そこで、受理していた饗宴の接伴役を
放置して、兵備を整えるために直ちに丹波国へ出発した。
ここで、信長に命ぜられた「家康接待役」を、光秀が「放置した」と記述するフロイス。
これに関しては、流石に光秀は「放置」出来る立場ではなかったので、「信長の命令」でした。
その一方で、光秀にとっては「唐突であった」ことが明示されています。
この「唐突」は、間違いない事実であると考えます。


当時、織田家は、四方八方で戦いを続けている状況でした。
その中で、本能寺の直前に武田家を討滅した信長。
「次はどの大名を討滅するか」は、「信長次第」でした。





信長は
これらの情勢を聞いて、



今、安芸勢と間近く接した
ことは天の与えた好機である。



自ら出陣して、
中国の歴々を討ち果たし・・・



九州まで一気に
平定してしまおう!



と、
決心した。
「信長公記」では、信長が「突然、毛利を叩き潰す決断をした」と、記述しています。
信長の「九州まで一気に平定」の話を、上記リンクでご紹介しています。
これらの話を総合すると、「中国方面へ突然出陣を命ぜられた」光秀。
しかも、時間は極めて少ない状況でした。
この状況を考えると、「明智家フル動員」は、どう考えても不可能です。
さらに、フロイスは「細川領の丹波」までも、「明智領に含めて計算」しています。
これは、「細川藤孝の立ち位置」にもよりますが、動員に関しては「別」です。
すると、「明智の動員能力=45万石程度」となり、「4万石で千人」ならば「一万二千程度」となります。
そして、「唐突の出陣」で時間がなかったため動員率=70%程度と考えると、
約一万二千✖️70% =約 8,400となり、フロイスの記述と見事に一致します。
すると、やはり、フロイスの数量などに関する記述は「極めて正確」と筆者は判断します。



そして兵士を率いて都から
五里離れた亀山と称する城に向かった。





・・・・・
いよいよ、光秀が本拠地・亀山城に向かいました。
そして、いよいよ光秀による謀反が始まります。



