前回は「伊藤博文「大久保利通・岩倉具視・木戸孝允の三公こそ維新の三傑」〜欧化主義を大絶賛した伊藤博文・打ち破った封建主義と開国論〜」の話でした。
伊藤と木戸を結びつけた来原良蔵:伊藤博文を世に出した木戸孝允

今回から、「伊藤博文が語る木戸孝允」の話です。
| 語る対象 | ページ数 |
| 大久保利通 | 15 |
| 木戸孝允 | 22.5 |
| 西郷隆盛(南州) | 1 |
| 高杉晋作 | 0.2 |
| 三条実美 | 6 |
| 岩倉具視 | 11 |
| 島津久光 | 0.5 |
| 島津斉彬 | 2 |
| 吉田松陰 | 1 |
| 長井雅楽 | 1.5 |
| 藤田東湖 | 1 |
| 大村益次郎 | 2 |
| 佐久間象山 | 0.2 |
| パークス | 7 |
| 弘法大師 | 1 |
| 狩野芳崖+橋本雅邦 | 2 |
| 豊臣秀吉 | 0.2 |
| 菅原道真 | 0.2 |
| 森槐南+矢土錦山 | 0.2 |
| 合計 | 74.5 |
とにかく、「木戸孝允によって引き立てられ、世の中に出た」伊藤博文。
当然ながら、伊藤公直話では、木戸孝允に最大のページを割いています。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 大村 益次郎(村田 蔵六) | 1825 | 長州 |
| 岩倉 具視 | 1825 | 公家 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 来原 良蔵 | 1829 | 長州 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 三条 実美 | 1837 | 公家 |
| 山縣 有朋 | 1838 | 長州 |
| 高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
| 伊藤 博文(俊輔) | 1841 | 長州 |
幕末、早くから「長州の総帥」的立場であった木戸孝允。

木戸孝允は、伊藤博文の8歳年上であり、「兄役」でした。
幕末、聴衆を引っ張ったのは、木戸孝允・大村益次郎・高杉晋作・久坂玄瑞らでした。
どこから見ても、端正な顔つきであり、いかにもエリート然とした木戸孝允。
木戸ほど「何かの組織の総帥」たる風格のある人物は、そうそういません。
そして、幕末にかけて、異様なほど光っていたのが、木戸孝允の巨大な政治力でした。
伊藤博文予が初めて木戸公と
知ったのは、丁度十八の時である。
伊藤博文が十八、当時、桂小五郎と名乗っていた木戸孝允が二十六歳の時に初対面となりました。





木戸公の妹婿に来原良蔵という
人があった。



予は、その人の薫陶を
受けていた。
伊藤博文に「薫陶を与えた」来原良蔵に関しては、改めて触れます。
幕末、横浜の外国公使館襲撃計画の責任をとって自害した来原良蔵。
伊藤博文は、「来原良蔵を尊敬した」と言われています。



その
故で・・・



木戸公が江戸に出るに
就いて一緒に行かないか。



と言われるので、
公に従って出て来た。
伊藤「西郷以下人才は政治に向かなかった」:木戸と大久保と伊藤


伊藤博文が十八歳の時は、数え年だと1858年であり、安政の大獄直前でした。
まだまだ、幕府の巨大な力が健全であった時代に、江戸に初めて向かった伊藤。



それから予は、木戸公の
属僚となっていた。



けれども普通に使われるような
待遇を受けなかった。



木戸公に愛されて、
兄弟もただならぬといったような間柄であった。
早くも木戸に見出され、「木戸と兄弟同然」であったと語る伊藤博文。
この辺りは、伊藤の一方的な主張であり、少々割り引いて考える必要がありそうです。



その頃は、江戸に出て
各藩の人と交際をするのが、第一の学問であった。



そうして、長州人の中では、
交際の広いことは木戸公の右に出るものはなかった。
すでに二十六歳にして、「長州一の交際範囲」を持っていたと評価する木戸孝允。
勿論、江戸の長州藩邸において、木戸より上の立場の人物も多数いたはずです。
丁度「若者たち」に視線が向かっていた時代、「若者をまとめる若者」であった木戸は光っていました。



木戸公は、予に広く各藩の有志と交わって、
見聞知識を広める機会を与えてくれたのである。



各藩の有志の中には、学者もあれば、勤王家もあり、
洋学者もあって、開国論を主張する。



従って、予も幾多の交友を得、自分の
見聞を広めることになった。



予は教えを受けて
育った位の仲だ。



木戸公とは、
特別に親密であった。
とにかく、「木戸+伊藤」は自他共に認める「兄弟以上の顕密な仲」でした。


| 立場 | 名前 | 生年 | 出身 |
| 正使 | 岩倉具視 | 1825 | 公家 |
| 副使 | 大久保利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸孝允 | 1833 | 長州 | |
| 山口尚芳 | 1839 | 肥前 | |
| 伊藤博文 | 1841 | 長州 |
そして、最も若者ながら、木戸の強力な推薦があり、岩倉使節団の副使の一人となった伊藤。



ところが、明治四年、
ヨーロッパに使節に行ってから・・・



少し妙なことが起こって、
一時交際振りが変わったことがある。



それはー木戸公・大久保公などという人は、
当時日本において、必要欠くべからず人であった。



政府を維持するという上においては、
西郷以下人才がいたけれども・・・



それらの人は政治の方には
向かなかった。
大久保の章と同様に、とにかく、「木戸孝允と大久保利通は政治家として別格」を貫く伊藤博文。


そして、留守政府で事実上の「西郷首相」であり、廃藩置県・地租改正などを断行した西郷隆盛。
その西郷隆盛を、伊藤博文は徹頭徹尾「政治家として全く評価しない」伊藤博文でした。

