前回は「不思議なフロイス「謀略に精通してない信長」〜「欺瞞」した光秀像・「延暦寺の全収入」確保した光秀・緻密で整合性が高いフロイス記述〜」の話でした。
フロイス「安土城に次ぐ」坂本城:客観性が高いフロイス「日本史」

Froisあまり謀略(という手段を弄すること)に
精通してはいない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい・・・
明智光秀に対して、「信長を遥かに上回る」大謀略家と記述したフロイス。



そして明智は、都から四里ほど離れ、比叡山に近く、
近江国の二十五里もあるかの大湖(琵琶湖)の辺にある・・・



坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、
それは日本人にとって豪壮華麗なもので・・・



信長が安土山に建てたものにつぎ、
この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。


本能寺直後に、完全に焼け落ちてしまった坂本城。
この坂本城に対して、フロイスは「安土城に次ぐ存在」と明記しています。


当時、間違いなく「天下一」であった安土城。


莫大な織田家の経済力と、「海外に対する威嚇」を込めた大巨城であった安土城。


安土城もまた、本能寺直後に焼け落ちたため、現在は、上のように廃墟が残っています。
安土城趾を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。
とにかく、光秀に対しては、「極めて悪辣な謀略家」であるかのように記述するフロイス。
それに対し、光秀の坂本城を「安土城につぐ城」であり「天下一に次ぐ天下二だった」と褒めました。
この点は、いかにもフロイスの記述が客観性があることを示していると考えます。
明智光秀の「謀反の根拠づくり」の「創作」=「信長の光秀足蹴」





ところで、信長は奇妙なばかりに親しく彼を
用いtが、この度は、その権力と地位を一層誇示すべく・・・



三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために
饗宴を催すことに決め・・・



その最大な饗宴の
接待役を彼に下命した。



これらの催し事の準備について、
信長はある密室において明智と語っていたが・・・



元来、逆上しやすく、自らの命令に対しては
反対意見を言われることに堪えられない性質であったので・・・



人々が語ることろによれば、彼の好みに合わぬ要件で、
明智が言葉を返すと・・・



信長は立ち上がり、怒りをこめ、
一度か二度、明智を足蹴にしたということである。



だが、それは密かになされたことであり、
二人だけの間での出来事だったので・・・



後々まで民衆の噂に残ることは
なかったが・・・



あるいは、このことから明智は何らかの根拠を
作ろうと欲したかも知れぬし・・・



あるいは、(おそらくこの方がより確実だと思われるが)
その過度の利欲と野心が募りに募り・・・



ついにはそれが天下の主人になることを彼に
望ませるまでになったのかも知れない。
ここで、フロイスは「信長の光秀足蹴」説に関して、独特の所見を明らかにしています。
この「信長の光秀足蹴」に関しては、多くの小説やドラマで採用されています。
フロイスは「二人だけの間での出来事だった」と明確に記載しています。
そして、「信長と光秀だけが知る事実」だったことを明確に指摘しています。
仮に、「信長の光秀足蹴」が事実であったとして、信長がそれを言うメリットは何もありません。
そして、光秀にとっても「信長に足蹴にされた」ことを、わざわざ言うメリットはありません。
ただし、この「光秀にメリットがない」のは、「織田家臣(重臣)でいる間」です。
その一方で、フロイスが指摘している通り、「光秀の謀反の根拠」であれば、メリットは大きいです。



信長という男は、
私の言うことが好みに合わないと・・・



すぐに逆上して、この私を
足蹴にしたのだ!



重臣であり、年長者である、歴戦の忠義者に対して、
信長という人間はこういうことをしたのである!



だから、私は信長に対して、
謀反を起こさざるを得なかった、のだ!
これを光秀が主張すれば、「本能寺の変の大義名分」とは、なり得ます。
ここで、注目なのは、フロイスが「おそらくこの方がより確実だと思われるが」と書いている点です。
フロイスの視点から見て、「明智が謀反の根拠として言いふらした」と推測しています。


信長公記には、この頃、信長が家康や徳川家臣団に以上に気を遣った事実を記載しています。
家康接待と、天下を目指していた信長に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
確かに、「信長の光秀足蹴」は、当時一部で囁かれていた噂であったことは間違いなさそうです。
その一方で、信長公記は一切「信長の光秀足蹴」に触れていません。
そして、フロイスは「光秀の謀反の根拠づくり」と推測しています。
これらの事実からも、「信長の光秀足蹴」は「なかった」のは間違いありません。
そして、「信長の光秀足蹴」光秀の「謀反の根拠づくり」の「創作」であったことが確実と考えます。
これが、「信長の光秀足蹴」の真実でした。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) |
| 林秀貞 | 1513年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 佐久間信盛 | 1528年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
信長よりも6歳も年上であり、「織田家の中核」の存在だった光秀。
その信長に「一方的に叛逆した」光秀は、「叛逆の根拠」が欲しかったのは当然でした。
苛烈なイメージが強い信長に対して、「信長の光秀足蹴」は「いかにもありそう」な創作でした。



信長に対して、謀反を起こすにあたり、
うまく大義名分を作らねばな・・・
この点、フロイスが言う通り、光秀は「謀略に極めて長けた」人物だったのでした。
次回は上記リンクです。




