織田家中で「余所者で外来の身」だった光秀〜フロイスの光秀への悪意・織田四天王四人のうち三人が非譜代・「計略と策謀の達人」光秀〜|本能寺の変2・ルイス・フロイス「日本史」18

前回は「ルイス・フロイスが見た「本能寺」〜「高貴の出ではない」光秀・「ときは今」の真相=謀反の「時」・光秀が超名門土岐とは無関係の事実〜」の話でした。

目次

織田家中で「余所者で外来の身」だった光秀:フロイスの光秀への悪意

New Historical Voyage
信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

緻密極まりない、戦国時代を描いているルイス・フロイス「日本史」。

ルイス・フロイスは、本能寺の変を語るにあたり、明智光秀に関して語っています。

Frois

信長の宮廷に惟任日向守殿、
別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。

Frois

彼はもとより高貴の出ではなく、
信長の治世の初期には・・・

フロイスは「光秀など、大した身分ではなかった」とハッキリ言っています。

Frois

その才略、深慮、狡猾さにより、
信長の寵愛を受けることとなり・・・

ここで、光秀が「才略と深慮があった」点は認めていますが、続いて「狡猾さ」とあります。

「狡猾さ」には、悪意が込められているのは当然であり、これがフロイスの光秀の人間像でした。

ただし、この点は、「本能寺の変の後(直後)に書いた報告書」であることを考慮する必要があります。

信長とは、利害関係含めて、実に様々な状況にあったフロイスやイエズス会。

その一方で、フロイスやイエズス会にとって、信長は「概ね大いなる庇護者」でした。

その「大いなる庇護者・信長を殺害した」ことに対する怒りが込められている、と感じます。

Frois

殿内にあって彼は余所者であり、
外来の身であったので・・・

Frois

ほとんど全ての者から快く
思われていなかったが・・・

Frois

自らが受けている寵愛を保持し
増大するための不思議な器用さを身に備えていた。

光秀は、織田家中で「余所者で外来の身」だったと語るルイス・フロイス。

名前生年(一部諸説あり)譜代
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年✖️(28歳頃〜)
明智光秀1528年✖️(42歳頃〜)
佐久間信盛1528年
織田信長1534年-(当主)
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年✖️(20歳頃〜)
織田信長と織田家重臣の生年・織田家仕官

「身分に関わらず、大抜擢した」織田家と呼ばれることが多い織田家。

他の家ならば「重臣は全て譜代か身内」であるのに対して、織田家重臣は「非譜代」が多いです。

この一覧表には、「織田家末期(後世から見て)」に追放された林・佐久間を入れています。

現実として、「林・佐久間なし」には、織田家の興隆は「なかった」と考えます。

織田四天王四人のうち三人が非譜代:「計略と策謀の達人」光秀

新歴史紀行
織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

中でも目立つのが、織田四天王と呼ばれる「方面軍司令官」の出自です。

織田四天王のうち、譜代は柴田勝家のみであり、「四人のうち三人は非譜代」でした。

この現象は、他の家では決して見られなかった現象でした。

当時、一定の所領を信長から貰い、「堂々の戦国大名」格だった織田四天王の武将たち。

諸説ありますが、直轄領と事実上の支配領域は、それぞれ50〜100万石ほどありました。

それにも関わらず、「生年が諸説ある」人物が多く、明智光秀・滝川一益は特に謎が多いです。

その一方、確かに「非譜代」であっても、一益と秀吉は若い頃から信長に仕えていました。

この点では、明智光秀と滝川一益・羽柴秀吉は、大きな違いがありました。

明智光秀が、織田家で「孤立気味であった」点をフロイスは指摘しました。

この点は、「本能寺」後の悪意が込められているとは言え、重大な指摘と考えます。

「浮いていた明智光秀」は、大出世したものの「自分は別」と疎外感を感じていたように思います。

Frois

彼は裏切りや密会を好み、
刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが・・・

Frois

己を偽装するのに抜け目がなく、
戦争においては謀略を得意とし・・・

Frois

忍耐力に富み、計略と策謀の
達人であった。

光秀を、フロイスは「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的」と切り捨てています。

光秀が、とてつもない悪者であるような印象を受けるのが、フロイスの光秀評です。

とにかく、「悪逆極まりない人物」のように描いている「フロイスの光秀像」。

その一方、「忍耐力に富み、計略と策謀の達人」と記載し、「超一流武将であった」ことを認めています。

「達人」という表現もまた、西洋らしく面白いです。

「本能寺」の頃、「信長が上京した理由」は諸説ありますが、「織田の天下」は1〜2年以内だった当時。

そして、毀誉褒貶もあった信長は、概ね「キリスト教・イエズス会」に対して好意的でした。

新歴史紀行
延暦寺:大講堂(新歴史紀行)

延暦寺を焼き討ちし、フロイスにとっては「仏敵を滅亡させた」信長。

その信長を殺し、「信長の世=キリスト教の世」を潰した光秀。

光秀に対して、とにかく激怒していたフロイスでした。

新歴史紀行

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