永遠の謎の光秀「ときは今」の真意〜地味ながら「超名門守護」の土岐・信長が命じた「信康自決」の真相・良好な同盟関係続けた織田と徳川〜|本能寺の変6・信長公記13

前回は「徳川家康を「家康公」と呼んだ信長〜家康と徳川家臣団への熱い思い「世間の風評に配慮」した信長・三職推任問題と民衆との和〜」の話でした。

目次

信長が命じた「信康自決」の真相:良好な同盟関係続けた織田と徳川

新歴史紀行
安土城天主 信長の館(新歴史紀行)
信長公記

食事が終わると、家康と供の人々を
上下残らず安土城に招き・・・

信長公記

帷子を贈って、
歓待をしたことは言うまでもない。

安土で異常なまでに、徳川家康と徳川家臣団に気を遣った信長。

New Historical Voyage
左上から時計回りに、織田信長、徳川家康、羽柴秀吉、明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)
織田信長

このたびは、
京都・大坂・奈良・堺を・・・

織田信長

のんびりと御見物なさると
よいでしょう。

自らは、毛利討滅後に一気に九州まで平定する大戦に乗り込む信長。

それに対して、武田軍団の圧迫を長年受け続けた後に、ようやく武田を共に倒した家康。

信長は、自分は出陣するものの、家康に対して「のんびりと京都など見学」を提案しました。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
徳川家康1543年
織田信忠1557年
織田信長・織田家重臣・徳川家康の生年

信長よりも9歳年下であり、「可愛い弟」のような存在だった家康。

家康に対しては、家康長男の「信康自決」を命じた信長に対しては、諸説あります。

この「信康自決」に対して、信長が「長男信忠よりも信康が優れていた」のを危惧した説もあります。

筆者は、この「信長の危惧説」は虚説であると考えます。

新歴史紀行
鉄砲隊を指揮する滝川一益(戦国合戦絵巻 ダイヤプレス)

後世の視点では、長篠の戦いで「武田家は壊滅した」かのように写っていますが、実態は異なります。

この時、確かに武田軍は大打撃を受けたものの、この後再起して最大版図を築いた武田勝頼。

この観点から考えれば、「長篠」後も武田家は、織田・徳川に対して「筆頭の敵」であり続けました。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家
国衆(地侍)織田家徳川家・毛利家・北条家・三好家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

さらに、家柄が違い過ぎ、「戦国の世を治める」立場として「何もかも申し分ない」存在だった武田。

この武田家に対して、信長は「巨大な脅威」を感じ続けていました。

その結果の一つが「信康自決」であったと考えます。

永遠の謎の光秀「ときは今」の真意:地味ながら「超名門守護」の土岐

新歴史紀行
織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
信長公記

五月二十六日、
明智光秀は中国へ出陣のため・・・

信長公記

坂本を出発し、丹波の居城に
到着した。

信長公記

翌二十七日、亀山から
愛宕山へ参詣、一夜参籠した。

信長公記

光秀は考えるところがあってか、
神前に参り・・・

信長公記

太郎坊の前で二度も三度も
おみくじを引いたそうである。

この「光秀がくじを引いた」のは有名ですが、信長公記では「二度も三度も」と曖昧です。

人の名前や日付など、極めて詳細に記述する太田牛一ならば、「二度」か「三度」か明確にしそうです。

これは、「二度か三度か、あるいはもっと多かったのか分からない」から、と考えます。

信長公記

二十八日、
西坊で連歌のかいを催した。

信長公記

発句は
明智光秀。

明智光秀

ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・

西坊行祐

水上まさる
庭のまつ山 西坊行祐・・・

里村紹巴

花落つる 流れの末を
堰き止めて 里村紹巴・・・

有名な「ときは今」の光秀に続き、西坊と里村紹巴が続けました。

New Historical Voyage
信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

信長公記は、様々な形で出版されていますが、筆者が参照している上の本には注記があります。

光秀連歌の歌の意味

・光秀:ときは今 あめが下知る 五月かな

今、時は五月雨の降りしきる五月である

裏に、「今こそ土岐氏の庶流である明智が天下を取る時だ」という意味が隠されているとも言える

・西坊:水上まさる 庭のまつ山

川上の水音が高く聞こえる庭には松山が見える

・里村:花落つる 流れの末を 堰き止めて

水の流れを堰き止めるように花がたくさん散る

「ときは今」の真意がどうであったのか、は永遠の謎です。

これは、「光秀自身しかわからない」ことであり、当然記録にも残っていません。

「発句者」としては、「今の季節」が大事であるため、いかにも自然です。

その一方で、「とき=土岐」は極めて重要なポイントです。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家・土岐家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家
国衆(地侍)三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

戦国時代では、地味な存在である土岐氏ですが、堂々たる守護の名家でした。

更に、武田家と同様に「清和源氏の流れの多田源氏の流れ」であった土岐氏。

土岐氏の歴史は長く、平安時代末期頃には、美濃で既に一定の勢力を持ち始めた説もあります。

いずれにしても織田・徳川とは「比較の対象にならない超名門」だった土岐。

その一方で、素性定かではない光秀が「本当に土岐の庶流か」も諸説あります。

信長公記

このように百韻を詠んで、
神前に納めた。

信長公記

五月二十八日、
丹波の亀山に帰城。

とにかく、いよいよ「本能寺」に近づいてきました。

新歴史紀行

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