前回は「徳川家康を「家康公」と呼んだ信長〜家康と徳川家臣団への熱い思い「世間の風評に配慮」した信長・三職推任問題と民衆との和〜」の話でした。
信長が命じた「信康自決」の真相:良好な同盟関係続けた織田と徳川

信長公記食事が終わると、家康と供の人々を
上下残らず安土城に招き・・・



帷子を贈って、
歓待をしたことは言うまでもない。
安土で異常なまでに、徳川家康と徳川家臣団に気を遣った信長。





このたびは、
京都・大坂・奈良・堺を・・・



のんびりと御見物なさると
よいでしょう。
自らは、毛利討滅後に一気に九州まで平定する大戦に乗り込む信長。
それに対して、武田軍団の圧迫を長年受け続けた後に、ようやく武田を共に倒した家康。
信長は、自分は出陣するものの、家康に対して「のんびりと京都など見学」を提案しました。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) |
| 織田信長 | 1534年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 織田信忠 | 1557年 |
信長よりも9歳年下であり、「可愛い弟」のような存在だった家康。
家康に対しては、家康長男の「信康自決」を命じた信長に対しては、諸説あります。
この「信康自決」に対して、信長が「長男信忠よりも信康が優れていた」のを危惧した説もあります。
筆者は、この「信長の危惧説」は虚説であると考えます。


後世の視点では、長篠の戦いで「武田家は壊滅した」かのように写っていますが、実態は異なります。
この時、確かに武田軍は大打撃を受けたものの、この後再起して最大版図を築いた武田勝頼。
この観点から考えれば、「長篠」後も武田家は、織田・徳川に対して「筆頭の敵」であり続けました。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 織田家・徳川家・毛利家・北条家・三好家・(豊臣家) |
さらに、家柄が違い過ぎ、「戦国の世を治める」立場として「何もかも申し分ない」存在だった武田。
この武田家に対して、信長は「巨大な脅威」を感じ続けていました。
その結果の一つが「信康自決」であったと考えます。
永遠の謎の光秀「ときは今」の真意:地味ながら「超名門守護」の土岐





五月二十六日、
明智光秀は中国へ出陣のため・・・



坂本を出発し、丹波の居城に
到着した。



翌二十七日、亀山から
愛宕山へ参詣、一夜参籠した。



光秀は考えるところがあってか、
神前に参り・・・



太郎坊の前で二度も三度も
おみくじを引いたそうである。
この「光秀がくじを引いた」のは有名ですが、信長公記では「二度も三度も」と曖昧です。
人の名前や日付など、極めて詳細に記述する太田牛一ならば、「二度」か「三度」か明確にしそうです。
これは、「二度か三度か、あるいはもっと多かったのか分からない」から、と考えます。



二十八日、
西坊で連歌のかいを催した。



発句は
明智光秀。



ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・



水上まさる
庭のまつ山 西坊行祐・・・



花落つる 流れの末を
堰き止めて 里村紹巴・・・
有名な「ときは今」の光秀に続き、西坊と里村紹巴が続けました。


信長公記は、様々な形で出版されていますが、筆者が参照している上の本には注記があります。
・光秀:ときは今 あめが下知る 五月かな
今、時は五月雨の降りしきる五月である
裏に、「今こそ土岐氏の庶流である明智が天下を取る時だ」という意味が隠されているとも言える
・西坊:水上まさる 庭のまつ山
川上の水音が高く聞こえる庭には松山が見える
・里村:花落つる 流れの末を 堰き止めて
水の流れを堰き止めるように花がたくさん散る
「ときは今」の真意がどうであったのか、は永遠の謎です。
これは、「光秀自身しかわからない」ことであり、当然記録にも残っていません。
「発句者」としては、「今の季節」が大事であるため、いかにも自然です。
その一方で、「とき=土岐」は極めて重要なポイントです。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家・土岐家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
戦国時代では、地味な存在である土岐氏ですが、堂々たる守護の名家でした。
更に、武田家と同様に「清和源氏の流れの多田源氏の流れ」であった土岐氏。
土岐氏の歴史は長く、平安時代末期頃には、美濃で既に一定の勢力を持ち始めた説もあります。
いずれにしても織田・徳川とは「比較の対象にならない超名門」だった土岐。
その一方で、素性定かではない光秀が「本当に土岐の庶流か」も諸説あります。



このように百韻を詠んで、
神前に納めた。



五月二十八日、
丹波の亀山に帰城。
とにかく、いよいよ「本能寺」に近づいてきました。

