前回は「「易々と特許状を与えた」信長〜あっという間の建築工事完成・「民衆守る」信長の意思・「たまたま」ではなく「探していた」不埒者〜」の話でした。
「新将軍」らしい強気の姿勢見せた義昭:乗り込んできた三好三人衆

1568年に「将軍奉戴」で京に乗り込んだ織田信長は、3年後に延暦寺を焼き討ちしました。
当時、寺院の影響力は現代よりも遥かに強力であり、強い経済力と様々な機能を持っていました。
「新たな秩序づくり」を目指した信長の視点から見れば、寺院は「邪魔な存在」でした。
Froisなんら煩わされる事なく、また宿舎として
使用されることのないための特許状を獲得しようとした。



このため、彼らは多額の銀を費やし、
その証書を入手して・・・



はなはだ満足して住居に帰り、
まったく安堵していた。
政界工作を行い、信長の特許状を得ることに成功した、六条・本圀寺の仏僧たち。



しかるに公方様は、
母と兄が殺された際・・・



これら六条の僧侶たちが、法華宗徒であった
(松永)弾正(久秀)殿の許可を得て・・・



その母の住居を取り壊し、
自らの僧院へもたらしたことを聞いたらしい。





なにっ、
我が母の住居を!
これは、将軍となった義昭が「取り返さない」はずはありませんでした。



そこで、公方様は都に来ると
ただちに家臣と共に同所に住うことに決めた。



それゆえ、仏僧たちは彼に、
そのようなひどい圧迫を加えないようにと切願した。



だが、彼は、これを一笑に付して
侵入した。
後年、「軽率」な印象で描かれる事が多い足利義昭ですが、「将軍家らしい」振る舞いをしました。
これは、どう考えても「義昭に理がある」行為でした。



信長が自国に戻った後、
そして公方様が、なおその寺院にいた際・・・



以前天下を統治していた三人の殿が来襲し、
彼に対して最初になしたのは・・・



彼らが先に造った、かの新しい寺内と集落を、
ただの一軒も残さずに焼却した事であった。
巨大な軍事力を有した信長が、一時的に美濃に帰国した際、三好三人衆が京に乗り込んできました。
当時、信長は相応の軍勢を残していたはずでしたが、多数の寺内・集落が焼かれました。
フロイスは、三好軍の詳細な記載をしていませんが、おそらく一万以上の大軍勢だったでしょう。
「一度決意したこと撤回しない」信長:大ベテラン松永久秀の洞察


現代においても、寺は広大な地所・面積を有し、多数の建築物があります。
日本においては、寺と神社がありますが、歴史的に寺の方が広大な面積を有しています。
寺は、日本の歴史において、巨大な存在であり続けた特別な存在でもあります。



しかし、これはまだ仏僧たち自身の身に
及んだ事ではなかったので・・・



彼らはそれでもって自分たちの
苦難と不安は終わったように考えていた。
とにかく「将軍家排除」の三好にとっては、仏僧は「他人事」のように感じていたようです。



ところが、その後、信長は、城の石像建築が
終わった後、木造建築の宮殿を造営する決心をした。



ところで、新たに山や森で伐採せねばならない
ならば、建築は大いに遅延し・・・



公方様は大して早く新邸に移る事が
出来なかったので・・・



彼は、何らの控訴や答弁の余地を与えず、
極めて巧妙に造られた塗金の屏風と共に・・・



あるがまま、この寺院の全ての
豪華な部屋を取り壊し・・・



それを城の中で再建することを
命じた。





寺院を破壊して、
早く公方様の城を建築するのだ!
「建材の早期入手」のため、先に石像破壊をした信長は、今度は「寺院破壊」を始めました。
建材の入手は様々な苦労がありますが、何と言っても重大な問題は「建材の運搬」です。
そのため、建築する場所の近くから建材を入手することは、極めて合理的発想でした。



仏僧ら一同は、弾正殿の許に至り、彼らのために
信長のところで、執り成してくれるように乞うた。



彼は、これに対し、
信長が一度決意したこと撤回されないから・・・



あえてそうしようとは
思わぬ、と答えた。


一時は、天下の三好家の重臣として、京周辺に大勢力を持っていた松永弾正。
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 松永久秀 | 1508年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 六角義賢(承禎) | 1521年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 大友義鎮(宗麟) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
北条氏康や武田信玄よりも遥かに高齢であり、大ベテランであり、「戦国の長老」だった松永久秀。
松永は、信長の26歳年上であり、当時の観点では「親と子」の年齢差がありました。
1568年当時、「戦国の長老」松永弾正から見れば「若僧」以下の「小僧」であった信長でしたが、



信長は、決めたら
変えない男だ・・・
早くも、信長の性格を的確に見破っていました。
戦国有数の知謀・政治力を有した大ベテランの松永久秀は、確かに人物眼も確かでした。

