前回は「「快刀乱麻の如く」だった大久保利通〜11歳年上の大久保への憧憬・大久保利通と西郷隆盛への「対照的」評価・西南戦争の極大衝撃〜」の話でした。
「一定の方針をとって着々歩を進めた」大久保利通:シビれた若き伊藤

明治六年の政変によって、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・板垣退助らが一斉に政府を去りました。

桐野利秋我らも
西郷先生と共に薩摩へ!



おおよ!
大久保なんかに従えるかよ!
そして、西郷一党であった桐野利秋陸軍少将、篠原国幹陸軍少将らも西郷と行動を共にしました。
廃藩置県を断行し、一度は事実上「首相」であった西郷隆盛。
さらに、明治政府の頭脳派がゴッソリ消えてしまい、軍部はガラガラとなってしまいました。



おいどんは、
明治政府のために尽くすごわす・・・
この中、西郷隆盛の実の弟であった西郷従道は、兄・隆盛と行動を共にしませんでした。
これは「従道の意思」というよりも、「隆盛の意思」であったと考えます。


伊藤公直話で、伊藤博文は、明治六年の政変から台湾征討の頃を語っています。



然るに佐賀の乱が起こった時、
公(大久保)は内務卿を以って自ら征討に出てゆかれた・・・



次いで、台湾事件で
支那と葛藤が起こるや・・・
明治六年の政変の翌年、1874年には、「内治専念」の明治政府は、軍事が多数勃発しました。
この時に、率先して自ら軍を主導し、政治を引っ張った大久保に対して、



公は自ら請うて、
その難局に当たられた・・・
伊藤博文は、「難局に自ら当たって全て解決した」大久保を極めて高く評価しています。



大久保公のその頃の態度というものは、
実に立派だった・・・



毅然として群疑の間に卓立し、
一定の方針をとって着々歩を進め・・・



真に人意を強うせしむる
ものがあった・・・
ここで、大久保を「一定の方針をとって着々歩を進め」と表現している点が興味深いです。
着実に、確実に政治・軍事を解決してゆく大久保に、若き伊藤博文はシビれたのでしょう。
大久保から内務を任された伊藤博文:「兄貴分」清国との死闘


いわば、明治政府始まって以来となった、台湾出兵。
当時、台湾は清国の領土であり、明らかな「外征」でした。
その後、日清戦争勝利により、台湾は大日本帝国の領土となります。
この「台湾征討」の時点で、明治政府内部では、「台湾の事件解決」以上の目論見があったでしょう。



この事件でいよいよ出使の
決心を固められた時・・・



予め(大久保は)予に胸中の
計画を告げて・・・



さて、この事を公に
台閣に持ち出すに当たって・・・



気懸りになるは
国内の形勢である・・・



若し君が自分に代わって、内務の衝に
当たり、治安を維持してくれるならば・・・



自分は身を挺して
北京に赴き・・・



直接に清国の当路者と
論判をして見たい・・・



と、その決心を
打ち明けられた・・・



予は公の心中を察して、
即座に公の出使に同意し、



貴君の御不在中は、不肖なれども
私が内務を引き受けて・・・



如何なる手段に訴うるとも
必ず国内の治安を維持しましょう・・・



御心置きなく、深刻との
談判に従事せられるように・・・



と、きっぱり
答えた・・・



それで
安心した・・・



満足に
耐えぬ・・・



公は、いよいよ北京行の
提議をされた・・・



こういう大事の時に当たって、
公は、いつも危険を避けず・・・



自ら奮ってその渦中に
投ぜられた・・・



これは実に、公が人と
異なった特性を持っておられたからである・・・
長い日本の歴史において、江戸時代までは、中国は日本の「兄貴分」であり続けました。
中国の歴代王朝側の視点から見れば、日本は「事故の下の国」という中華思想でした。
確かに、人口も多く、世界のGDPでトップであった中国は、「アジアの王」であり続けました。
この中、清国と「大トラブル」となった台湾事件・台湾出兵。
大久保が出かけて行けば、解決の見込みは大幅に上がりますが、「殺される」可能性もありました。
この中、「自らの生命を賭けてでも、交渉に赴いた」大久保を、伊藤は益々尊敬したのでしょう。

