前回は「村田蔵六が開設した私塾+研究所「鳩居堂」〜シーボルト娘楠本イネの応援・西洋学問=蘭学を猛推進していた徳川幕府・諸外国と締結した最初の条約=日米和親条約・揺れるオランダの立場〜」の話でした。

討幕司令官・村田蔵六を「養成した」幕府:「幕臣強化教室」講武所

現代の東京大学に近い組織であル、徳川幕府肝入りの蕃書調所の教授手伝となった蔵六。
徳川幕府村田蔵六殿には、
講武所教授手伝になって頂く!
その後、幕府の要望で講武所の教授手伝(准教授)になりました。



今度は講武所で
教えるのか・・・





やあ、村田殿、
久しぶりですな・・・



これは、勝殿、
ご無沙汰しております・・・
長崎伝習所で面識を得た勝海舟もまた、講武所の教授でした。
この年は、安政四年であり1857年でした。
この後、10年後に幕府は瓦解し、明治維新となるため、後世の視点では幕末です。
ところが、1857年の徳川幕府は、強力な日本政府であり、



講武所では、幕臣の子弟に
洋式訓練、砲術などを教える!



武芸百般を教授し、
幕臣を強化するのだ!
いわば、「幕臣強化教室」であったのが講武所でした。
3年前の1854年に米提督ペリーに恫喝されて、日米和親条約を締結させられた徳川幕府。
「無能」と呼ばれることが多い、この頃の徳川幕府でしたが、徳川幕府はきちんと仕事をしていました。
教授人には、勝海舟、高島秋帆など高名、錚々たる人物が多数いた講武所では、



これは、これは、
大した人物が多いな・・・



これだけの人物を
揃えるとは・・・



やはり、大公議(幕府)の
力は、圧倒的だな・・・
傲岸な性格の村田蔵六から見ても、周囲の教授・教授手伝陣の面々は優れていました。



村田殿には、実地訓練ではなく、
西洋の兵学書の翻訳をお願いしたい!



承知しました・・・
お任せを・・・
そして、講武所でも引き続き西洋兵学書の翻訳を進めた蔵六。



ほう・・・
こんな本もあるのか・・・



なになに・・・
このような戦略も良いな・・・
翻訳をするプロセスにおいて、村田蔵六の兵学力はメキメキ増強しました。
いわば、幕府は「討幕司令官・村田蔵六を養成した」とも言えるでしょう。
村田「大先生」長州出身を発見した久坂玄瑞:鳩居堂に結集した俊英


そして、宇和島藩士・村田蔵六の名声は「極めて優れた西洋兵学者」として、名が上がり続けました。
宇和島藩としては、嬉しい限りであり、藩主・伊達宗城は大喜びでした。





我が藩士となった
村田殿が、幕府に重用されている・・・



これは、我が伊達宇和島藩にとっては、
面目躍如だ!
村田を見出した伊達宗城は、後に「四賢候」の一人として幕末を駆け抜けます。
「村田を見出した」だけでも、伊達宗城は、日本の歴史に名を刻むに足る人物でした。
この頃、講武所で教えながら、自身が設立した鳩居堂を研究所兼私塾としていた蔵六。
鳩居堂には、多数の志ある若者たちが入塾していました。
その中に、長州藩の俊英・久坂玄瑞がいました。





村田蔵六先生の
教えは素晴らしい・・・



村田先生のように
蘭学書を読むことが出来・・・



西洋の先進学問を吸収することが
出来れば、鬼に金棒だ・・・



私も一生懸命
学ぼう・・・
若い頃から優等生であった久坂玄瑞は、かなり優れた頭脳を持っていました。
ところが、頭脳で比較しては、村田蔵六は圧倒的存在であり、敵う存在ではあ離ませんでした。



だが、
無理だ・・・



村田先生は適塾で
学んだ・・・



そもそも、若い頃から
村田先生の出身の藩は教育熱心だったのだろうか?
そして、久坂玄瑞は、蔵六が宇和島藩出身であることを知りました。



村田先生は宇和島藩の
藩士か・・・
ここで、色々と調べているうちに、「思いがけない事実」を知った久坂。



な、なに!!!
村田先生は、元は我がな、なに!!!
村田先生は、元は我が長州藩士だ!!!長州藩士だ!!!
ここで、「尊敬する大先生」であり、同じ藩出身であることを知った久坂。
「大先生」だけでなく、当時有数の「「兵学の巨頭」でもありました。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 大村 益次郎 | 1825 | 宇和島(長州) |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 前原 一誠 | 1834 | 長州 |
| 高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
| 伊藤 博文 | 1841 | 長州 |
1858年で、まだ19歳(数え年、以下同)だった久坂玄瑞にとって、見上げる存在だった村田蔵六。
同年、村田は34歳であり、新進気鋭の人物でした。



村田先生は、一時的に
宇和島藩に藩籍を置いているのか・・・



なんとしても、
長州藩に戻ってきて貰わねば・・・



そして、我が長州藩の
柱石となって頂きたい・・・
そして、若き久坂は、村田蔵六が「長州藩に戻る」運動を始めました。

