前回は「信長会心の全軍突撃〜「正面突撃」だった桶狭間・「水を撒くようにどっと崩れた」今川軍・「この上もない難所」桶狭間〜」の話でした。
尾張南部の大半を押さえた今川家:信秀が目にかけた山口父子の裏切り

信長公記には、「桶狭間」の合戦の進行が、簡潔に、詳細に、明瞭に描かれています。
信長公記敵は水を撒くように後ろへ
どっと崩れた・・・



次第次第に人数が減り、
ついには五十騎ほどになった・・・



毛利良勝は、義元を
切り伏せて首を取った・・・
「暴風雨の後に晴れた」のを確認した後、「会心の全軍突撃」を敢行した信長率いる織田軍。


義元の首が取られ、「桶狭間」は織田軍完勝で終了しました。
興味深いのは、信長公記には「桶狭間」後の記載が様々描かれていることです。



話はさかのぼるが、信長の父信秀は、
山口教継・教吉父子に長年目を掛けてやり・・・



鳴海に
居城させた・・・



思いがけず信秀が死ぬと、
山口父子は間もなく厚恩を忘れて・・・



信長に敵対を企て、
今川義元に忠義立てをして・・・



居城鳴海へ今川勢を引き入れ、
ために智多郡は義元の手に属した・・・


当時の尾張の地図が上の図です。
この図を見ると、山口父子の領土であった知多郡が、今川軍の手に渡ったのは極めて重要です。
さらに、「山口親子が今川に内通」だけではなく、「今川勢を引き入れ」が重要です。
この結果、知多郡は今川家の支配下となってしまいました。



その上、愛智郡へ押し入り、
笠寺というところに砦を構え・・・



岡部元信・葛山長嘉・浅井小四郎・
飯尾顕茲・三浦義就を在城させた・・・



鳴海には息子山口教吉を入れておき、
笠寺の隣、中村の郷を砦に改造し・・・



山口教継が
居陣した・・・
この記述によると、信秀が勢力を培っていた尾張南部の大半が今川となったことを示しています。
戦国の世にデビューした織田信長:「天道に背いた」今川義元の運命


太閤検地の頃の石高では、下記の通りです。
| 国名 | 石高(およそ) |
| 尾張 | 57万石 |
| 三河 | 29万石 |
| 遠江 | 25万石 |
| 駿河 | 15万石 |
この石高を元に計算すると、「尾張:駿河+遠江+三河=57万石:69万石」で、大差ありません。
異常に高い生産力を持った国であり、商業・流通も盛んであった尾張。
当時の尾張は、全国有数のハイレベルな国でした。
尾張統一した信長でしたが、全土を掌握は出来てなかったのは現実でした。
その点を加味しても、「それほど織田軍は今川軍より劣ってなかった」説もあります。
その一方、この信長公記の記述によると、「智多郡と愛智郡が今川家のもの」となった事実は強烈です。
鳴海砦は愛智郡南部であり、清洲城も近いので、「愛智郡南半分が今川」と考えます。
面積で考えても広く、さらに「海に面している」点も重要です。
信長の父・信秀が、津島湊を押させて巨額の現金収入を得ていた事実は有名です。
この観点から「智多郡+愛智郡南半分」を押さえられると、海の流通に巨大な影響があったはずです。


こうして考えると、「桶狭間」直前の状況は、「圧倒的に今川家が有利」だった状況でした。



このように重ね重ね忠節を
尽くしたのに・・・



義元は駿河へ教継・教吉両人を
呼び出し・・・



褒美は少しも与えず、
無情にも問答無用と切腹させてしまった・・・
今川義元は、冷酷にも「内通した」山口父子を処分し、鳴海付近を完全に掌握しました。
この「山口父子の話」は、「桶狭間」に極めて重要な影響を与えています。
ここまででも、事実として信長公記の記載は興味深いですが、続きがあります。



世は末世だというけれど、
今も日月は厳然と天にあり・・・



正邪を
明らかにしている・・・



今川義元は山口教継の在所へ
きて、鳴海に四万五千の大軍をなびかせたが・・・



それも役に立たず、千分の一の
信長勢、わずか二千そこそこの軍勢に打ち叩かれ・・・



逃げるところを
討たれて死んだ・・・
ここで「千分の一」は明らかに誤記載です。
「信長二千」は、「義元四万五千」の「二十分の一」程度です。



あさましい巡り合わせというか、
因果は歴然・・・



善悪二つの道理は定かで、
天道に背くと恐ろしいことになるものである・・・
要するに、「山口教継への酷すぎる仕打ち」が、「今川義元の運命を決めた」と主張した牛一。
ここまで読むと、「千分の一」は「誤記載」ではなく、「意図的」であったことが明らかです。
文章の整合性や詳細な記載からして、牛一がこの程度の割り算を間違えるとは思えません。
「千分の一」によって、信長と義元の差を意図的に大きくしていると考えます。
それによって、「義元の非道」を強調していると考えます。
いずれにしても、



義元の矛先には
天魔・鬼神もかなうものか。良い心持ちだ!
このように「能天気な姿勢」であった義元には、「天罰級」の仕打ちが与えられました。
この「桶狭間」によって、信長は戦国の世にデビューして、時代を駆け抜けてゆきました。

