前回は「傲岸な性格だった草鹿龍之介〜若い頃に見定めた「我が道」・理系的合理性の発想と航空戦の未来・電探の実用性〜」の話でした。

草鹿龍之介回想録「一海軍士官の半生記」:戦記「戦藻録」との大きな違い

草鹿龍之介自身の半生を描いた「一海軍士官の半生記」は、とても興味深い書籍です。
陸海軍人の様々な人物が、半生記・回想録などを出版しています。
この中、草鹿ほど第二次世界大戦・大東亜戦争の中枢にいた人物が書いた書籍は貴重です。
当時の海軍士官の記録・日記などで、最も有名な書籍は宇垣纏が書いた「戦藻録」と考えます。
別名「宇垣日記」とも呼ばれる「戦藻録」は、当時の海軍の資料の超一級史料といえます。
草鹿龍之介私は宇垣纏は
大嫌いでしてね・・・
「宇垣嫌い」を公言していた草鹿龍之介。
| 海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
| 32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
| 36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
| 38 | 三川 軍一 | 水雷 | 第三戦隊司令官 |
| 40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
| 40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
| 41 | 草鹿 龍之介 | 航空 | 第一航空艦隊参謀長 |
| 42 | 加来 止男 | 航空 | 飛龍艦長 |
真珠湾奇襲攻撃時には、機動部隊の事実上の指揮官である第一航空艦隊参謀長であった草鹿。
そして、海兵で一期上であった宇垣纏は連合艦隊参謀長でした。
共に「中核中の中核」であった参謀長であった草鹿と宇垣。
両者の不和は、当時から有名であったと考えられます。
そして、海兵の頃に、おそらく何らかの接点があったと思われる宇垣と草鹿。
宇垣の海兵40期は144名、草鹿の41期は114名で、少数精鋭の学校であった海軍兵学校。
この人数で、上下関係が濃密だった海兵ならば、「宇垣と草鹿」に何かあったかもしれません。
いくつかの書籍を著している草鹿ですが、本書は大変読みやすく、当時の海軍の雰囲気が分かります。
戦記の「戦藻録」とは大分異なり、草鹿の歩んだ人生と当時の帝国海軍の状況がよく分かります。
海兵入学時の詳細な記録と描写:従兄・草鹿任一と兵学校へ


「一海軍士官の半生記」の中から、草鹿が海軍兵学校に入学した頃の話を見てみましょう。



明治四十三年八月下旬、
私は待望の江田島に向かって・・・



両親の膝下を
離れて行くことになった・・・
当時、完全全寮制であり、世間と離れた江田島で「世間と断絶」して教育を行った海軍兵学校。
この頃は超難関であり、陸軍士官学校・海軍兵学校は、一高(東大)と同等かそれ以上のレベルでした。
幼い頃から優等生で通した草鹿は、一高と海兵両方に合格しました。
そして、少し悩んだ上、一高ではなく、自らの意思で海兵を選んだ草鹿。


海兵4期上で、後に第十一航空艦隊司令長官となる草鹿任一は従兄でした。



途中、呉で、当時
巡洋艦千代田乗組であった・・・



従兄(草鹿任一)を
そのガンルームに訪ねた・・・



従兄は喜んで、
わざわざ兵学校迄案内して呉れた・・・
「ガンルーム」は、尉官などの若手士官が集まる部屋です。
当時、「海軍将校への道」であり超エリートコースであった海軍兵学校。
「陸軍将校への道」であった陸軍士官学校と共に、「大日本帝国の中枢」となる人材を育てました。
一高=東大は、主に帝国政府官僚・政治家を育てる場であったのに対し、将校育成の場でした。



我が帝国を守ってくれている
軍人さんたち・・・



そして、その軍人さんたちを
指揮する将校たち・・・
当時は、軍人に対する尊敬の念が強かった時代でした。
「生命をかけて自国や自分たちを守っている」軍人たちであり、その頂点に立つ将校たち。
海兵、陸士で学ぶ人物や卒業生たちに対する、世間の目は「超スーパーエリート」以上でした。
この感覚は、おそらく現代の東大の比ではなく、現代では理解しづらいと考えます。



おうっ!
龍之介!



いよいよ、お前も
海兵に入ったか!
おそらく、こんな感じで、従兄・任一は龍之介を大歓迎したのでしょう。



当時、大阪市、高知市等は
伝染病流行地と指定され・・・



この両市より入学するものは、
他のものより十日程早く着校し・・・



隔離病室に隔離され、その後更に、
他の人と一緒に、最終の体格検査に合格してから・・・



正式に兵学校生徒を命ぜられることに
なっていた・・・
明治43年は1910年であり、日露戦争が終わった後、小康状態だった大日本帝国。
大阪出身だった草鹿龍之介は、「まず隔離される」ことになりました。
この頃は、伝染病に対する意識が強く、これほどの感染対策をしていたのは驚きです。



私は兵学校構内の粗末なる
病室に入れられた・・・



入ってみると、すでに先着の
豪傑共が三人いた・・・



いずれも土佐の高知海南中学の
出身であった・・・
1892年に生まれ、敗戦時には53歳であった草鹿龍之介。
その後、書いているこの「一海軍士官の半生記」において、学校名まで覚えていた草鹿。
当時、極めて優秀で理科の素養も抜群だった草鹿ですが、その頭脳明晰さを表しています。



黒の着衣に黒の袴、
何でもこれが制服である・・・



茫洋たる大入道が鈴木虎男、
背の高いのが今村幸彦・・・



小男で濃い眉毛が逆八になって居るのが
中山友蔵と云ふ・・・



これ等の豪傑に較べると、
私の方がスマートである・・・
おそらく、当時から小太りであった草鹿龍之介。
海軍兵学校入学当時の草鹿の描写は、詳細を極め、様々な実名や特徴が明記されています。
次回も、草鹿の海兵入学時の話を読んでみます。

