「信長と一緒に駆けた」五名の小姓のフルネーム〜不思議な「〜守」・「謡を三番うたった」今川義元・緻密過ぎる牛一の描写〜|桶狭間の戦い2・信長公記2

前回は「「超一級資料」信長公記〜太田牛一が生きた「信長の時代」の記録・「桶狭間」前夜の生き生きとした描写・信長「鎧をつけ、立ったまま食事」〜」の話でした。

目次

「信長と一緒に駆けた」五名の小姓のフルネーム:不思議な「〜守」

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左上から時計回りに、戦国大名 織田信長、今川義元、上杉謙信、武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

戦国最大の覇王である織田信長のデビュー戦となった「桶狭間」。

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

「桶狭間」に関しては、定説化した「信長の奇襲攻撃」が有名です。

その一方で、「信長の奇襲攻撃の事実」は、昭和末期頃から疑義も指摘されています。

信長の家臣であった太田牛一が編纂した、超一級資料・信長公記の「桶狭間」を読み進めます。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
太田牛一1527年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
太田牛一と戦国大名の生年

「桶狭間」の時は、信長27歳(数え年、以下同)、義元42歳、筆者の牛一は34歳でした。

当時の年齢は、現代よりも10歳ほど遅れていると考えて良いです。

人生のスピード感から考えると、当時の信長27歳は、現代の37歳くらいです。

もっとも、これは「信長が27歳で成し遂げたこと」が「現代の37歳」ではないと考えます。

いずれにしても、当事者たちの「年齢感」は大事です。

信長公記

兜をかぶって
出陣した・・・

「敦盛」を舞い、立ったまま食事した信長は、勇んで出陣しました。

信長公記

この時従ったのは、
お小姓衆の岩室長門守、長谷川橋介、

信長公記

佐脇良之、山口飛騨守、
加藤弥三郎・・・

信長公記

これら主従六騎、
熱田まで三里を一気に駆けた・・・

信長以外の五名の小姓たちは、いずれも著名ではない人達です。

その一方で、「桶狭間」の端緒を切ったこの五名を重視し、牛一はきちんとフルネームで記録しました。

ここで、気になるのは、小姓のうち二名が「〜守」と官名で記録されていることです。

当時の信長は「上総介」であり、「〜守」は名乗っていなかった時代です。

それにも関わらず、小姓の立場で「〜守」は、若干の不自然さを感じます。

この頃は、「〜守」は「自称」であることも多い時代でしたが、異和感があります。

これらの「〜守」は「桶狭間」後に信長に仕え続けた結果の官位・呼称かもしれません。

「謡を三番うたった」今川義元:緻密過ぎる牛一の描写

新歴史紀行
熱田神宮(新歴史紀行)
信長公記

辰の刻に
上知我麻神社の前から東を見ると・・・

信長公記

鷲津・丸根の両砦は陥落したらしく、
煙が上がっていた・・・

鷲津・丸根の陥落は有名ですが、場所・方位の記述が詳細です。

信長公記

この時点で信長勢は、
騎馬六騎と雑兵二百人ほどであった・・・

この時点では、細々とした軍勢であり、とても今川勢に突撃する軍勢ではありませんでした。

信長公記

海岸沿いに行けば
距離は近いが・・・

信長公記

潮差し満ちて
馬の足に不便なので・・・

信長公記

熱田から上手の道を飛ばしに
飛ばして駆け通し・・・

信長公記

まず丹下の砦へ行き、
次に善照寺の佐久間信盛が居陣する砦へ行き・・・

信長公記

将兵を集結させ、
陣容を整えて、戦況を見極めた・・・

v
織田家重臣 佐久間信盛(Wikipedia)

ここで、この頃の織田家の中核勢力の代表だった佐久間信盛が登場します。

少ない軍勢で、機動力高く、一気に駆け抜けて、戦況を見極めた信長。

当時、27歳だった信長は若々しさと老練さを兼ね備えた、基本に忠実な戦いをしました。

信長公記

敵、今川義元は
四万五千の兵を率い・・・

信長公記

桶狭間山で人馬に休息を
与えていた・・・

信長公記

五月十九日午の刻、
義元は北西に向かって陣を張り・・・

今川義元

鷲津・丸根を攻め落とし、
満足これに過ぎるものはない!

信長公記

と言って、謡を三番
うたったそうである・・・

「桶狭間」の織田勢・今川勢の実数は諸説あり、概ね「織田五千vs今川二万五千」が有力です。

ここで、太田牛一は「今川四万五千」と明記しています。

流石にこれほどの大軍勢は、実数ではなかったと思われますが、「呼称」はそうだったのでしょう。

さらに、「謡を三番歌った」と、敵方の情報にも関わらず、極めて詳細な記録を残した牛一。

この辺りは、「桶狭間」から数年内に、牛一が手元にメモを残していたと考えるのが正しいと考えます。

あるいは、牛一の「創作」なのか、「記憶の断片」なのか、どうか。

「本能寺」後に編纂開始した説が有力な信長記ですが、1582年ですでに56歳でした。

周囲で、まだ存命していた人たちに確認したかも知れません。

いずれにしても、これらの細かな情報は、早い時期に牛一が記録に残した可能性が高いと考えます。

新歴史紀行
今川家家臣 松平元康(徳川家康)(Wikipedia)

そして、いよいよ当時、今川義元の家臣だった徳川家康が登場します。

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