「心気広闊」の大戦略家・織田信長〜室町幕府の香りが残存した戦国・「形だけは当初法華宗」の記述・本能寺と安土宗論〜|ルイス・フロイス「日本史」4

前回は「「肩の上から話をした」織田信長が見ていた未来〜既存勢力への睨み・「中位の背丈だった」信長〜」の話でした。

目次

「心気広闊」の大戦略家・織田信長:室町幕府の香りが残存した戦国

New Historical Voyage
ルイス・フロイス「回想の織田信長」(新歴史紀行)

緻密かつリアルな描写が多い、ルイス・フロイス「日本史」。

Frois

彼(信長)は日本の全ての王侯を軽蔑し、
下僚に対するように・・・

Frois

肩の上から彼らに
話をした。

ルイス・フロイスの記述は、様々な人物を対象としていますが、織田信長の描写が多いです。

実際に、織田信長と面会し、数多くの会談をしたルイス・フロイス。

フロイスの「王侯」とは、既存の小大名以上の勢力を指すと思われます。

「肩の上から話をした」信長は、既存勢力一掃を図っていたでしょう。

Frois

そして、人々は彼に
絶対君主に対するように服従した。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴秀吉1537年
長宗我部元親1539年
徳川家康1543年
本願寺顕如1543年
有名戦国大名の生年

織田信長が生まれた1534年は、「室町時代+戦国時代」という特殊な時代でした。

信長が14歳(数え年)となる1547年には、足利義輝が第13代将軍に就任しました。

足利義輝

この足利義輝は
弱体化した幕府機構を強化したい・・・

剣豪であり、室町幕府強化を目論んでいた足利義輝。

後に、義輝は三好一党に白昼暗殺されますが、それは「暗殺されるほど政治に意欲的だった」証拠でもあります。

この意味では、信長が思春期を迎えた頃は、戦国時代とはいえ、旧勢力の秩序が相応に残存していました。

Frois

彼は戦運が己に背いても
心気広闊、忍耐強かった・・・

稀代の大戦略家・織田信長は、旗色が悪くても、忍耐強かったのは想像できます。

ここで、翻訳にもよりますが「心気広闊」という言葉が、爽快さを示しています。

織田信長

余は、心気広闊な
人物なのだ!

織田信長が異常なほど飛躍したのは、この信長の「心気広闊」な戦略によると考えます。

「形だけは当初法華宗」の記述:本能寺と安土宗論

新歴史紀行
岐阜城:山道からの光景(新歴史紀行)

ルイス・フロイスが、織田信長に初めて対面したのは、1569年という説が有力です。

この頃、信長は尾張・美濃を領し、足利義昭を奉戴して京に乗り込んだ頃でした。

そして、信長の支配領域が尾張・美濃から一気に広がった頃でした。

新歴史紀行
第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)
足利義昭

広がったのは、
信長の領土ではない・・・

足利義昭

この足利将軍家の
領土なのだ!

「奉戴された」足利義昭は、当時このように思っていたでしょう。

「群雄割拠」「下剋上」など、様々な形容詞があり、乱れていた戦国時代。

それにも関わらず、「足利家」の旗印は、確かに超強力でした。

織田信長

足利の旗印が
強力とは思っていたが・・・

織田信長

まさか、これほどまで
強力だったとは・・・

「奉戴した」信長は、おそらくこのように考え、

織田信長

新たな時代を作るには、
邪魔かもしれんな・・・

「足利家の旗印」に対して、異和感を感じたでしょう。

Frois

彼は、善き理性と明晰な
判断力を有し・・・

Frois

神および仏の一切の礼拝、尊崇、
並びにあらゆる異教的卜占や・・・

Frois

迷信的慣習の
軽蔑者であった・・・

「自らを神」としたと伝わる織田信長。

桶狭間の戦いの際には、熱田神宮に立ち寄り、「祈祷した」と伝わります。

熱田神宮の信長塀に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

織田信長

私は、神や仏など
尊崇しない!

信長が「礼拝しない」のは当然ですが、「一切尊崇しない」という点が重要です。

一向宗徒との死闘を繰り広げた信長は、確かに宗教に対しては極めて強い姿勢でした。

その一方で、キリスト教に対しては「ある程度の理解」を示した信長。

Frois

形だけは当初法華宗に
属しているような態度を示したが・・・

Frois

顕位に就いて後は
尊大に全ての偶像を見下げ・・・

Frois

若干の点、禅宗の見解に従い、
霊魂の不滅、来世の賞罰などは・・・

Frois

「ない」と
みなした。

信長が「当初法華宗に属しているような態度」を示していた点は、重要です。

これは、フロイスの主観によるかもしれません。

この「法華宗」は、「本能寺の変」の舞台の本能寺が法華宗であることが一つの理由と思われます。

織田信長

沢彦宗恩が
岐阜という名前をつけてくれたのだ!

稲葉山城を奪取後、岐阜城と改名した信長は、岐阜という名前を沢彦宗恩に見出してもらいました。

沢彦宗恩は、臨済宗であり、信長は臨済宗に対しては嫌悪感を持っていなかったはずです。

好き嫌いが超激しい信長は、「嫌いな宗徒」の人間を重用するはずがないからです。

いずれにしても、「形だけは当初法華宗」という記述が重要です。

「本能寺」が理由であれば、「当初」にはならないはずです。

そして、安土宗論では、法華宗を「弾圧した」と言われる信長。

安土宗論は1579年のことで、すでに織田の天下が決まりかけていた時期でした。

このこともあり、「さらに尊大になっていた」信長ですが、「当初法華宗」には何か謎がありそうです。

新歴史紀行

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