前回は「弘道館で猛勉強した江藤新平〜義祭同盟主催の枝吉神陽・「とにかく勉学重視」の苛烈な佐賀藩・江戸の高い教育の多様性〜」の話でした。

一気に討幕軍の中核となった佐賀藩:日本でただ一つの「兵器廠藩」

幕末、諸藩の中でいち早く当時最先端技術の塊であった反射炉を完成させた佐賀藩。
異様なほど科学技術が進んでいた佐賀藩は、討幕において薩長土に大きく遅れていました。
ところが、その莫大な技術力によって、討幕戦では最新兵器を多数提供した佐賀藩。

大村益次郎佐賀藩の
アームストロング砲は最高だ・・・



これさえあれば、彰義隊は
一気に壊滅可能だ・・・
佐賀藩は、当時の日本では佐賀藩でのみ製造可能であったアームストロング砲を討幕軍に提供しました。



佐賀藩は、討幕には
大して関わってこなかったごわすが・・・



これらの兵器を出した
功績は大きいごわすな・・・
圧倒的な兵器や軍艦を多数討幕軍に提供した佐賀藩は、一気に存在感を高めました。



我が佐賀藩は、
最先端科学技術を持っている・・・



そして、多数の最新兵器や
軍艦も保有している・・・



さらには、この江藤のように
学問に極めて秀でた人物が多数いる・・・
学問を真面目に勉強しない藩士には、「罰を与える」という過酷な藩風であった佐賀藩。
薩長土の指導者たちもまた、学問を学んだ人物も多数いましたが、江藤たちは「別格」でした。



この木戸孝允、
武術も得意だが、学問も自信あるが・・・



あの佐賀藩の連中の
学問ぶりは別格だのう・・・
西郷も若い頃は、薩摩藩校・造士館で学び、算盤等は一通り理解していました。
そして、当時の藩士たちは武術同様、一生懸命に学問にも打ち込む傾向がありました。
ところが、「一定のラインに届かなければ罰する」佐賀藩では、「葉隠」の意識も強い状況であり、



我が佐賀藩士の勉強ぶりは
他の藩とは次元が違う・・・
現代の学問レベルで比較すれば、江藤たちが大卒とすれば、木戸たちは高卒レベルでした。
そして、当時の日本で、ただ一つの「兵器廠藩」であったのが佐賀藩でした。
鎖国政策の公式窓口・長崎:長崎警備担当と蘭学との強い接点


幕末の頃、佐賀藩をはじめとして、薩摩・長州・宇和島藩などでは最先端科学の取り入れに熱心でした。
外様大名の中では、大大名であった加賀藩・仙台藩などは、それほど熱心ではありませんでした。
伊達仙台藩の兄弟藩であった宇和島藩は、10万石であり小大名でしたが、蘭学を奨励していました。





最先端科学術の
宝庫である蘭学は極めて重要だ・・・



我が宇和島藩は、
蘭学者を重く用いる!
宇和島藩では、藩主・伊達宗城自ら蘭学者を重く用いる方針を明確にしていました。
後に大村益次郎となる村田蔵六が、宇和島藩に招聘された話を、上記リンクでご紹介しています。





我が薩摩藩も
蘭学を奨励する!



蘭学の研究所や
具体的な実地の施設を作るのだ!
自らも蘭学を学び、当時の大名の中では極めて稀だった「アルファベットを理解」した斉彬。



アルファベットは
面白いのう・・・



アルファベットを
理解出来る日本人は、ほとんどいない・・・
当時、アルファベットを理解できる日本人は、ほとんどいなかったことに目をつけた斉彬。



これからは秘匿性の高い
手紙はアルファベットで書く・・・



幕府に見つかっても、
アルファベットは読めまい・・・
秘密の手紙をアルファベットで書いた説が有力です。
このように、主に西国諸藩において、蘭学及び最先端科学技術の導入が行われました。


これらの西国諸藩には、大きな特徴があります。
それは、当時「アジア大陸である西側に開いていた」日本の国家像がポイントになります。


太平洋を横断して米国に向かった咸臨丸がありますが、米国との折衝は幕末まで少ない状況でした。
1.長崎・出島:徳川幕府の公式窓口(オランダ・中国)
2.対馬・宗氏:徳川幕府が公認・間接的関与(朝鮮)
3.蝦夷・松前氏:徳川幕府が半公認・間接的関与(蝦夷及びアイヌ)
4.薩摩・島津氏:徳川幕府は非公認・事実上黙認(琉球・中国・東南アジア)
それに対して、海でアジア大陸および欧州と繋がっていた西国は、対外窓口が多数ありました。
上記の通り、公式窓口である長崎に隣接していた佐賀藩。
佐賀藩は、長崎奉行のもとで長崎警備を命じられていたため、「公式窓口に最も近い藩」でした。
このことが、佐賀藩の蘭学による西洋技術振興に大きな影響を与えました。


