前回は「医師から軍事専門家へ変身した村田蔵六〜宇和島での蘭学教授と研鑽・高野長英を匿った伊達宗城・「取り潰し」の危険と蘭学者への熱い視線〜」の話でした。

大人しく幕法に従ったロシア使節ラクスマン:公式窓口は長崎

1853年に、米提督ペリーが浦賀に軍艦四隻を率いて来校しました。
この「ペリー来航」は、徳川幕府はオランダからの情報で事前に知っていました。

阿部正弘オランダ通詞の
言った通りにメリケンから使節が来た・・・



しかも、軍艦四隻を
率いて乗り込んできた・・・



我が国の外交の窓口は
長崎なのだから・・・



長崎に向かって
頂くように伝えよ!
この時、徳川幕府老中首座であった阿部正弘は、若い頃から頭脳明晰な人物でした。
後に島津斉彬とも組んで、幕閣や幕府の改革を目指す一角の人物でした。
その一方で、幕末の乱世を取り仕切るほどの能力や気概には、やや欠けた人物でもありました。
1.長崎・出島:徳川幕府の公式窓口(オランダ・中国)
2.対馬・宗氏:徳川幕府が公認・間接的関与(朝鮮)
3.蝦夷・松前氏:徳川幕府が半公認・間接的関与(蝦夷及びアイヌ)
4.薩摩・島津氏:徳川幕府は非公認・事実上黙認(琉球・中国・東南アジア)
この頃、徳川幕府の「外交の公式窓口」は、全て長崎に集約されていました。
長崎に準じる「外交窓口」は対馬でしたが、対馬は朝鮮が主であり、他に中国等アジア限定でした。
他には、蝦夷は「幕府半公認」であり、アイヌやロシアとの折衝がありました。
薩摩島津の琉球等の諸島では、密貿易が堂々と行われておりましたが、幕府は黙認していました。
ペリー以前には、実はロシアからラクスマンなどの使節が来航していました。
現代の感覚では、「米国が先」のように感じられますが、実は「ロシアの方が遥かに先」でした。





Japanの外交は
EdoではなくNagasakiですか・・・



分かりました・・・
Nagasakiに向かいましょう・・・
現代の感覚では「ロシアは強引」な印象がありますが、ロシア人・ラクスマンは大人しく長崎に向かいました。
長崎で出会った「幕府の巨頭」勝海舟と「討幕の巨頭」村田蔵六


大人しく長崎に向かったラクスマンと違い、ペリー提督は超強硬でした。



メリケンとの条約は
少々検討したいので・・・



来年、また
お越し頂けないでしょうか・・・



分かりました!
来年、また来ます!
1853年に来た際には、幕府お得意の「引き伸ばし作戦」に乗ったペリー。
大人しく、軍艦四隻と共に「退去してくれた」のにホッとした阿部でしたが、



な、なに・・・
将軍が亡くなられた、だと・・・


ペリーがやっと退去した10日後の1853年7月27日に、十二代将軍 徳川家慶が病没しました。


そして、新たに第十三代将軍 徳川家定が将軍に就任しました。
この「家定就任」に対しては、順当に行きましたが、大問題がありました。



我が子は
病弱過ぎる・・・



将軍職は務まらなそうだが、
他に適任者がいない・・・
父であった将軍・徳川家慶は、息子であった家定に対して、強い危惧を抱くほど病弱でした。



家定様では、この混乱期を
取り仕切るのは難しい・・・



とにかく、緩やかに
開国するしかないだろう・・・



近年、メリケンとは条約を
締結するしかないが・・・



どのような内容で
詰めてゆけな良いか・・・



前例がないから、
分からん・・・
日本政府であった徳川幕府もまた、現代の日本政府と同様に「前例主義」でした。
当時、「条約締結の前例」がなかった老中阿部は困り果ててしまいました。



う〜む・・・
皆に聞こうか・・・
そして、老中阿部正弘は、諸大名などに意見を求めました。



海外の諸国と、
どのように付き合い・・・



我が国がどのような
道を取るべきか・・・



幕臣ならば誰でも良いから、
意見書を出して頂きたい・・・





ここは、このように
海防を強化し・・・



諸外国に
堂々と立ち向かって行くべきです!
ここで、下っ端旗本であり、蘭学者でもあった勝麟太郎(海舟)の意見書が光っていました。



この勝麟太郎という
幕臣の意見は優れている・・・



勝には幕府の重役を
担ってもらおう・・・
こうして、勝海舟が世にでるきっかけを作ったのは、阿部正弘でした。
翌年1854年には、軍艦九隻を率いて乗り込んできたペリー提督。



Nagasakiに
向かえ、だと・・・



我らは、EdoがJapanの政治の中心で
あることを把握している・・・



私は、Shogunと
直接交渉したいのだ!



No! Nagasakiには
我らは向かわない!
「長崎での交渉」に対して、断固拒否したペリー提督。



分かりました・・・
条約結びましょう・・・



日米和親条約を
締結しましょう・・・
そして、1854年、徳川幕府は、日米和親条約を「締結させられる」ことになりました。
そして、海軍強化のため、長崎伝習所で必死に航海術や造船術などを研究した勝。



宇和島の
村田と申します・・・



幕臣
勝海舟と申す。
幕末維新の頃、最も「人物眼」に優れた勝は、一目で村田の能力を見抜きました。



この村田という
蘭学者・・・



かなりの知識を持ち、
際立った能力があるな・・・
長崎で、「幕府の巨頭」と「討幕の巨頭」が出会った瞬間でした。

