前回は「異常に高い能力評価を受けている黒田孝高〜全能力トップクラス・首都圏だった播磨で成長した孝高・超巨大勢力の三好の興隆と衰退〜」の話でした。

急速に勢力を弱めて解体した三好家:文武に優れた三好兄弟

1546年に生まれた黒田孝高は、小なりといえども大名だった小寺家の家老の家柄でした。
黒田孝高我が黒田家が
小寺家を支えているのだ・・・
播磨南部に蟠踞していた小寺家に関する情報は少ないですが、10万石程度と思われます。
そして、後に壮麗な巨城となる姫路城を預かっていたのが、孝高の父・職隆でした。



初陣を
飾ったぞ!
元は目薬の販売で利益を上げたと言われる黒田家でしたが、バリバリの武家に産まれた孝高。
1562年頃、数え年17歳の時に初陣を迎えたと言われます。
この頃は付近は「三好の天下」であり、戦国時代といえども、ある程度治安があった時代でした。



我が三好家が天下を
差配するのだ!
1562年頃の三好長慶は、240万石ほどの石高と、堺を押さえた貿易の力で覇権を握っていました。
ところが、元々の出自が大して良くなかった三好家は、



もともと、近畿周辺は
我が畠山家や細川家のもの・・・



三好など
潰してくれるわ!
旧勢力であった畠山家や細川家に加え、新興勢力の六角家などが組み「反三好」を掲げました。



ゆけ!
皆で組めば、三好は怖くない!
そして、三好家は周囲から挟撃されました。



むう・・・
東西南北から挟撃か・・・



な、なに?
我が弟の十河一存が急死?
この中、三好長慶の実弟であり、十河家を継ぎ、武で鳴らした十河一存が急死しました。
事実上の暗殺と思われます。



な、なに?
さらに、我が弟の三好実休が戦死だと?
さらに、茶の湯でも有名である三好家切っての教養人だった三好実休が戦死しました。
そして、みるみる勢力を減少させていった三好家は、一気に縮小してゆきました。
島津家・毛利家・北条家などと同様、三好家は「優れた三好兄弟」によって運営されていたのでした。



やられてばかりで
堪るか!



我が軍を再編成して、
反撃だ!
一流の武将であった三好長慶は、反撃に打って出ましたが、



我が後継者の
義興が急死してしまった・・・
長男・義興の急死によって、厭戦的な気分となり、三好家は分裂して解体してしまいました。
「同盟の重要性」を痛感した若き黒田孝高:松永久秀の暗躍と三好家


三好家の情報には、細心の注意を払って集めていた黒田家。
黒田家の頃の姫路城は砦程度でしたが、小高い丘の上にあった説が有力です。



あの三好が
あっという間に解体してしまった・・・
「天下人」三好家の弱体化は、様々な説があります。





この松永久秀は、
三好家の祐筆からのし上がった!
戦国時代の小説で、多数登場する説は、三好家重臣だった松永久秀による画策説です。
斎藤道三と並び、「戦国時代の梟雄」と呼ばれることが多い松永久秀。
松永に関しては、様々な説があり、あまりにも凄まじい人生であった松永。
それらの説は、脚色された部分も多く、実像はもう少し大人しめと思われます。
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 松永久秀 | 1508年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 今川義元 | 1519年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 黒田孝高(官兵衛) | 1546年 |
生年も出自も定かではない、松永久秀は、1508年生まれの説が有力です。
上の表においても、名だたる戦国武将の中でも、圧倒的な先輩格であった久秀。
まさに、室町時代末期の戦国時代の流れの中で生き抜いてきました。



我が松永家は、
摂津の土豪なのだ!
「摂津土豪」を名乗っていた説が有力である松永久秀ですが、筆者は農民などの出身と考えます。
松永の生き方を見ていると、土豪などの「一応武家の出身」とは思えない何かがあると考えます。
黒田孝高が初陣を飾った1862年には、すでに55歳(数え年)だった久秀。
もはや老年に域に入っており、戦国の世の表も裏も知り尽くしていた人物でした。



松永殿が、
十河様や三好義興様を・・・



暗殺して、三好家を
弱体化させたのでは・・・
このように「三好弱体は、松永による三好の中心人物の暗殺」説が有力に囁かれました。
筆者は、この可能性は低いと考えています。
むしろ、十河一存や三好義興の急死が暗殺であれば、反対側の畠山や細川などの陣営によるでしょう。
いずれにしても、あまりに苛烈な生き方をし過ぎた松永は、様々な「濡れ衣」を着せられました。



松永家は、大和を中心として
強い勢力を残しているが・・・



やはり、同盟勢力との
提携が全てだのう・・・
圧倒的存在だった三好家の弱体化を前に、若き孝高は「同盟の重要さ」を痛感していました。

