「最高の軍略学校」で軍略磨いた真田昌幸〜晴信近習と軍議参加・「ザ・山国」信濃で磨いた真田の調略・日本で最も平均標高が高い信濃〜|真田昌幸3・人物像・エピソード

前回は「武田信玄の近くで学んだ真田家三男・真田昌幸〜「戦国最強家臣団」武田二十四将・武田家に訪れた大きな転機〜」の話でした。

新歴史紀行
戦国大名 真田昌幸(Wikipedia)
目次

「ザ・山国」信濃で磨いた真田の調略:日本で最も平均標高が高い信濃

新歴史紀行
戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田家に仕えた真田昌幸の父・真田幸綱(幸隆)。

真田幸綱は、一時は地盤の真田庄を追われ、上野の長野業政のもとに身を寄せていた説があります。

真田幸綱

故郷の真田庄を
追われてしまった・・・

真田幸綱

しばらく信濃には
戻れぬ・・・

若年の頃の真田幸綱の人生は謎が多く、信濃を追われて、関東周辺で雌伏していたと思われます。

信濃にある真田庄は、上野との国境付近の山岳部であり、様々な国の情報が集まりました。

真田幸綱

ほう・・・
最近、村上義清は、その辺りを攻めておるか・・・

真田幸綱

小笠原は、そっちを
攻略中か・・・

New Historical Voyage
日本地図:現代(Wikipedia)

日本には様々な山脈や山地がありますが、平均標高が高いのは、現在の長野県です。

地形は、現代も戦国時代もさほど変化がないので、戦国期も「信濃が最も標高が高い」地域でした。

そのため、信濃は古来から「山国らしさ」を最も濃厚に持っていたため、独自の文化が生まれました。

New Historical Voyage
松本城(新歴史紀行)

確かに、信濃の山々は他の地域の山々よりも、脈々と山が連なる印象が強いです。

松本城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

この「ザ・山国」であり続けた信濃の地域は、「山国にしか生まれない」戦略や戦術が発展しました。

New Historical Voyage
関東地方の地図:現代(Wikipedia)

そして、信濃の山々から、上州へ山は連なってゆきます。

真田庄から上州・長野業政のもとに身を寄せた幸綱は、長野氏と何らかの地縁があったかも知れません。

真田幸綱

やはり、私は
山国で過ごすのが良い・・・

真田幸綱

山国の方が心地良いし、
山国の方が戦略が冴える・・・

おそらく、「山国を好んでいた」真田幸綱は、信濃と似ている地形の上州に向かったのでしょう。

上州で雌伏しながら、信濃周辺の情報を集めた幸綱は「真田の調略」を磨きました。

そして、村上氏の砥石城を調略であっさり攻略して、武田に臣従した真田幸綱でした。

「最高の軍略学校」で軍略磨いた真田昌幸:晴信近習と軍議参加

New Historical Voyage
上田城(新歴史紀行)

真田幸綱には、優れた長男・信綱、次男・昌輝がいました。

三男だった昌幸に対して、父・幸綱は、

真田幸綱

昌幸よ・・・
晴信様の元へゆけ!

真田昌幸

はっ、
府中へ参ります!

現代「甲府」と呼ぶ、甲斐の中心地は、戦国期から江戸期にかけて「府中」と呼ばれました。

後に、武田勝頼が新たな城を築いたときは、府中に対して「新しい」意味の「新府」と名付けました。

晴信の元に向かった昌幸は、「真田を継がない」立場であり、同時に人質でした。

武田信玄

お前が真田幸綱の
三男・昌幸か・・・

真田昌幸

はっ、この昌幸、
お近くで学ばせて頂きます!

新歴史紀行
武田四天王:左上から時計回りに山県昌景、春日虎綱(高坂昌信)、内藤昌豊、馬場信春(Wikipedia)

1547年生まれの真田昌幸が武田家に向かった頃は、武田家の隆盛期でした。

名前生年
真田幸綱1513年
山県(飯富)昌景1515年
馬場信春1515年
武田晴信(信玄)1521年
内藤昌豊1522年
春日虎綱(高坂昌信)1527年
真田昌幸1547年
武田信玄及び重臣と真田幸綱・昌幸の生年

武田四天王と呼ばれる、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、春日虎綱(高坂昌信)ら名将揃いだった武田。

山県昌景と馬場信春は、武田晴信よりも年上であり、重厚な家臣団がいました。

そして、武田四天王の中で最若手の春日虎綱は、昌幸の20歳年上でした。

山県・馬場は、純然たる武田家の重臣であり、「武田を支える二強」だったと言って良いでしょう。

上の武将たち以外にも、多数の優れた武将がいた武田家。

真田昌幸

山県様、馬場様とは
話せる立場ではないが・・・

真田昌幸

様々な人から、
軍略を学ぼう・・・

若い真田昌幸にとって、山県や馬場は父親の幸綱の年齢に近く、まさに「父親のような存在」でした。

そして、比較的若い内藤と春日に対しても、兄というよりも父に近い存在でした。

武田信玄

真田幸綱の砥石城攻略は、
我が武田飛躍の契機であった・・・

「砥石城攻略」という、武田に信濃攻略の大きなきっかけを作った真田幸綱。

その幸綱に対して、若き晴信は大いなる好感を持っていました。

武田信玄

昌幸よ・・・
この晴信の近習として仕えよ・・・

晴信は、比較的新顔であり人質であった真田昌幸に対して、破格の待遇を与えました。

武田信玄

人は石垣、
人は城・・・

このように「人材を超重視した」晴信の姿勢は、家臣育成にも徹底していました。

晴信の近習となった昌幸は、重要な軍議にも出席が許され、

山県昌景

晴信様・・・
ここは、この城を攻めるのが良いかと・・・

馬場信春

いや、山県殿・・・
今はこちらが優先では・・・

武田信玄

ふむぅ〜、
どちらが良いかのう・・・

内藤昌豊

拙者は、馬場殿と
同意見です・・・

拙者は、山県殿と
同じく、こちらが先かと・・・

武田家枢要の軍議に参加した若き昌幸は、

真田昌幸

な、なるほど・・・
このように戦略を練るのか・・・

「晴信近習」となった昌幸は、当時の日本において、「最高の軍略学校」で学ぶことになりました。

そして、昌幸はメキメキと武田家において、武田流軍略を身につけました。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次