前回は「戦国指折りの大戦略家・真田昌幸の実像〜評価が「異常に高い」真田・「幸村効果」と「信玄効果」で戦国最強武将へ・武田流の直系〜」の話でした。

武田信玄の近くで学んだ真田家三男・真田昌幸

とにかく、戦国ファンに「極めて根強い人気」があるのが真田です。
特に「真田」と言えば、「真田幸綱(幸隆)→昌幸→信繁(幸村)」を指すことが多いです。
「稀代の軍略家」とされる真田昌幸は、軍事・知謀・政治など多岐にわたる分野で評価が高いです。
1547年、真田幸綱の三男として生まれた真田昌幸。
昌幸が成人する頃の武田家は、まさに「武田絶頂期」でした。

昌幸が元服前後の15歳頃は、1561〜62年頃で、武田家が盛況だった時代です。
当時最強だった武田では、武田四天王など、多数の名臣たちが武田を固めていました。
もともとは、小さな土豪とは言え、独立した存在であった真田家。
一度は、所領を追われていた存在でしたが、昌幸の父・幸綱は、

この私の知謀で、
城を落としてみせよう!
持ち前の圧倒的な調略によって、村上義清の戸石城などの陥落に大いなる軍功を上げました。
そして、武田家において、確固たる地位を築き上げた真田幸綱。
この真田幸綱の子として、真田昌幸には大いなる期待が掛かっていたでしょう。





お前が真田幸綱の
三男・昌幸か・・・
そして、若い頃から武田信玄の近習となった三男・昌幸。



はっ、この昌幸、
お近くで学ばせて頂きます!
1547年生まれの昌幸から見れば、1921年生まれで「26歳上」だった信玄は、当時圧倒的存在でした。
事実上は「人質」であったものの、最盛期の武田家において、信玄の近くで学べた昌幸は、



武田家の家臣団の
層の厚さは素晴らしい・・・
信玄及び多数の優れた重臣たちから、多くを学んだでしょう。
この点で、「三男」だった昌幸は幸運でした。
「戦国最強家臣団」武田二十四将:武田家に訪れた大きな転機


真田昌幸が、信玄の近習となったと思われる1561年〜62年頃、武田家の存在は光っていました。
武田二十四将図が伝わっており、様々な「二十四将」がいます。
中には、当主であった「武田信玄を含む二十四名」である場合もあります。


ここでは、旗印と共に「信玄を除いて二十四名の名臣」た記載された上の武田二十四将を考えます。
このリストを見ると、一門から武田信繁、武田信廉、一条信龍、穴山信君の四名がいます。
二十四名中四名は、4/24=約16%であり、戦国時代において重要な一門がバランスよくいるのが特徴です。



我が武田家の
家臣団は最強よ!
他には、信玄の初期を支えた板垣信方・甘利虎泰などもおり、横断的な名臣たちがまとめられています。
当時有力であった戦国大名には、それぞれ重要な役割を果たした一門や家臣団がいました。
信玄が40歳頃だった1561〜62年において、武田家は重厚な圧倒的家臣団を持っていました。



我が武田家が
戦国の世を治めるのだ!
この頃の信玄は、本気で「戦国の世を武田が治める」と考えていたでしょう。
そして、この時期、ちょうど武田家にとって「極めて大きな転機」が訪れました。


その1〜2年前の1560年には、桶狭間の合戦によって、信長が鮮烈なデビューを果たしました。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |



織田信長という
若造に、あの義元殿がのう・・・


当時、甲相駿三国同盟を締結していた武田家にとって、今川家は「最大の同盟国」でした。
当時、関東で蟠踞していた北条家も強力でしたが、



今川は、我が武田と
同じく守護出身の名門・・・



元は伊勢家の傍流とは言え、
北条家と、我らは格が違う・・・
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家・三好家 |
国衆(地侍) | 織田家・徳川家・毛利家・北条家・伊達家・(豊臣家) |
保守的意識が強かった武田信玄にとって、甲相駿三国同盟は「武田+今川+北条」でした。
あくまで、甲相駿三国同盟の主体は「武田+今川」の超名門同士であった意識が強かった信玄。


そして、信玄にとって「2歳上の兄的存在」であり、優れた大名であった今川義元の存在は、



今川義元殿の
政治には学ぶことが多かったが・・・



あの今川殿が
瞬く間に討ち死にしてしまうとは・・・
桶狭間の戦いの頃、14歳頃(数え年)だった真田昌幸。



これは、我が武田が
極めて大きな転機を迎える・・・
武田にとって「最大の転機」が訪れた時、信玄の脇で昌幸は瞳を光らせていました。