前回は「のけ者にされた大友家と立花道雪〜完全に覇気を失った「九州の覇王」・異常に優れていた龍造寺の家臣団・島津と龍造寺の激突へ〜」の話でした。

「鎌倉以来の守護」超名門に生まれた大友宗麟:九州随一の家柄

瀬戸内海を望む豊後の地に1530年に生まれた大友義鎮(宗麟)。
義鎮は一般的には、宗麟の方が通りが良いですが、今回は義鎮で通します。
大友義鎮この私は、
超名門大友家の出身なのだ!



なんといっても、
我が大友家は豊後守護なのだ!



しかも、鎌倉時代の初期から
豊後守護なのだ!
九州随一の家柄と表現しても良いほどだったのが、鎌倉〜戦国時代の大友家でした。





守護と地頭を
設置する!



そして、我が源氏が
政治の実権を握るのだ!
源頼朝によって、日本で武家政権が樹立され、新たな職「守護と地頭」が設立されました。
守護:各国の軍事指揮官・行政官。地頭などを管轄して国を治め、強い軍事力を持つ。
地頭:領土(荘園等)と民衆(百姓等)を管理する地域の行政官。徴税権・警察権(軍事権)を持つ。
軍事力を持つ守護は、各国で最強の存在であり、まさにその地方を制する王でした。
それまでも、国司が各国を支配していましたが、国司は「朝廷が派遣した行政官」という立場でした。
「行政官」であり、文官的要素が強かったのが国司でした。
それに対して、文官ではなくバリバリの武官、というよりも将軍であった守護。
武力を背景とした守護の登場によって、我が国において「新たな国家像」が生まれました。



各国の守護の権限を
強力なものとし・・・



その守護の任命権限を
源氏が握れば、源氏の世は続くだろう・・・
頼朝は、こう考えたに違いないでしょう。
確かに、頼朝によって生み出された国家像「鎌倉幕府」は画期的でした。
鎌倉時代当時は、「幕府」という言葉はありませんでしたが、「源氏中心の武家政治」が生まれました。
頼朝直系の源氏は、たった三代で滅亡してしまいますが、これは「内輪揉めの余波」でした。
政治体制としては、異常なまでに完成されていたのが鎌倉幕府体制でした。
海に向いた義鎮の視線:足利将軍家から偏諱された「義」の字





海は
良いのう・・・
鎌倉以来の守護であった大友家は、室町期も当然の如く守護であり続けました。
さらに、室町期には豊後に加えて、豊前・筑後などで守護や地頭に就任し、勢力を強めた大友家。





この足利尊氏が、
鎌倉幕府を倒した!
源氏に続いて、北条家が支配した鎌倉幕府は1333年に滅亡し、建武の新政が始まりました。



この足利尊氏が、
室町幕府を設立した!
ところが、時代は「天皇中心の政治体制」ではなく「武家中心の政治体制」を望んでいました。
そこで、足利尊氏が「足利氏中心の武家政権=室町幕府」を設立しました。
政治家の色合いが強かった頼朝と比較して、足利尊氏は、どこまでも武人でした。
政治的能力は大したことがなかった足利尊氏。
さらに、時代背景として、地方の有力大名が勃興する時期と重なり、



地方に大きな大名が
多すぎるが・・・



まあ、足利氏が
権力を握れば、なんとかなるだろう・・・
室町幕府が、鎌倉幕府・江戸幕府と大きく異なる点は、有力大名の領土が広すぎる点です。
山名氏に至っては、11カ国ほどに勢力を伸ばし、当時60カ国ほどであった日本において、



山名は60カ国の
うち、11カ国を握っているのか・・・



11/60だと、
約1/6だな・・・



言わば、山名は
「六分の一殿」だな・・・
広大な領土を背景にした圧倒的パワーで、「六分の一殿」と呼称されました。
「六分の一殿」ほどでなくても、北九州で数カ国の権限を握っていた大友家。



我が大友は
九州一の守護大名だ!
室町末期に守護は、守護大名化しました。
そして、大勢力だった山名、細川などは応仁の乱で疲弊し、没落してゆきました。


京周辺で勃発した応仁の乱に対し、遠い九州にいた大友家は、あまり関与しませんでした。
これが賢明な判断であったため、大友家は、着実に勢力を広げました。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
戦国初期において、守護出身の守護大名は一握りでした。
その中で、大内家と並んで、「西の超名門」だった大友家。
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 今川義元 | 1519年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 大友義鎮(宗麟) | 1530年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 長宗我部元親 | 1539年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
ちょうど、戦国のキラ星大名たちの中間地点に生まれた宗麟。
他の大名同様に、お家騒動(二階崩れの変)などを経て、



義鎮の「義」の字は、
第十二大将軍・義晴様から頂いた!
足利家にとって、大事な「義」の字を偏諱されるほど、名門だった義鎮。



この義鎮が
九州を制覇してみせよう!
こう考えた義鎮の視点は、九州国内と同時に海に向いていました。
後に没落して、島津家に「潰された」形となった大友義鎮。
そのため、評価は「いまひとつ」ですが、実は超一流の政治家であり、戦略家でした。
海に向いた視線こそ、義鎮の真骨頂だったと言えるでしょう。

