西郷と大久保の仲介役を目論んだ川村純義〜政府内の数少ない「大久保党」・「最後まで薩摩藩士」だった西郷隆盛と私学校党〜|岩倉公実記6・西南戦争・エピソード

前回は「大久保が暫し「手元に置いた」西郷反乱の情報〜大久保から岩倉へ・不安定な明治維新の成立と明治六年の政変・「萩の乱」の大ショック・維新の原動力=松下村塾の反撃〜」の話でした。

目次

「最後まで薩摩藩士」だった西郷隆盛と私学校党

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鹿児島県令 大山綱良(Wikipedia)

示現流の達人であり、精忠組のボス格だった大山綱良は、西郷隆盛や大久保利通の兄貴分でした。

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)

明治10年2月10日に、「西郷党」の大物でもあった大山県令は、

大山綱良

何者とも分からぬ連中が
小銃弾薬を奪取しました!

「かつての後輩」であった大久保卿に対して、「私学校生徒の暴発」の連絡をしました。

明治6年に西郷たちが一斉に下野した後、

西郷隆盛

おいどんに
ついてきた薩摩藩士たち・・・

1872年(明治5年)の廃藩置県によって、すでに薩摩藩は消滅し、鹿児島県となっていました。

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西郷隆盛と私学校党:左上から時計回りに西郷隆盛、村田新八、桐野利秋、篠原国幹(国立国会図書館)

薩摩藩が消滅した以上、「薩摩藩士も同時に消滅」しましたが、

西郷隆盛

明治維新を成就した
中核が我ら薩摩藩士・・・

西郷にとっては、村田、篠原、桐野たちは「最後の最後まで薩摩藩士」であったでしょう。

そして、西郷隆盛も勿論「最後まで薩摩藩士」と自らを任じていたと考えます。

西郷隆盛

私学校を設立し、
鹿児島県のお役に立とうぞ!

そして、私学校党によって、薩摩を独立国の様にした西郷隆盛。

どこから見ても「異常事態」でしたが、

大久保利通

鹿児島と私学校には、
あまり口を出せん・・・

政府最高権力者であった大久保といえども、鹿児島と私学校は「野放し状態」でした。

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)

その鹿児島県で勃発した大騒動。

大山県令は、大久保内務卿に報告する際に「何者とも分からぬ連中」と表現しました。

これに関しては、大山と大久保双方が、

大山綱良

別に「私学校の連中」と言わなくても、
一蔵(大久保)は分かるだろう・・・

大久保利通

私学校とは書いてないが、
私学校以外にないな・・・

「私学校の仕業であることは暗黙の了解」でした。

西郷と大久保の仲介役を目論んだ川村純義:政府内の数少ない「大久保党」

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)
大久保利通

いつかは暴発すると
思っていたが・・・

大久保利通

ついに「その時」が
来たか・・・

「私学校」と「学校名」を名乗っているものの、明確な「西郷党の政治結社」であった私学校。

大久保利通にとっては、かつての故郷であり、幼馴染たちが多数いる薩摩。

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明治維新の立役者たち:左上から時計回りに岩倉具視、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通(国立国会図書館)

明治維新では、中核の「維新の四傑」の一人として、維新を牽引しました。

維新の四傑(新歴史紀行)

・薩摩:西郷隆盛・大久保利通

・長州:木戸孝允

・公家:岩倉具視

ところが、大久保の「超幼馴染であり同士」でもあった西郷隆盛が人気がありすぎました。

すでに、長州の吉田松陰のごとく、薩摩では神格化されていた西郷。

明治六年の政変で、西郷が下野した際には、旧薩摩藩士たちはこぞって、

旧薩摩藩士S

俺も西郷先生と
一緒に薩摩に帰るぞ!

西郷と一緒に薩摩に帰ってしまいました。

そして、政府内で圧倒的な勢力を誇っていた「薩摩軍団」は一気に消滅し、少数しか残らない状況になり、

大久保利通

我が薩摩出身者が、
少なくなったが・・・

大久保利通

別に構わん!
優れた人物は多数いるわ!

薩摩に残った旧薩摩藩士は、全員が自動的に「大久保党」の一派となりました。

ここで、旧薩摩藩士であった中原尚雄が登場します。

中原尚雄

「ボウズヲシサツセヨ」との
命令を受けた・・・

ここで「ボウズ(坊主)」とは、西郷を指す暗号でした。

この後の「シサツ」に関しては、「刺殺」だったのか「視察」だったのか、諸説あります。

実態としては、「西郷を視察」は「常にしていた」明治政府の命令であれば「刺殺」であったでしょう。

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海軍大輔 川村純義(Wikipedia)

この明治10年の時に海軍大輔だった川村純義。

西郷隆盛の親戚であり、小さい頃から西郷に「実の弟」のように可愛がられた川村純義。

川村純義

いかん・・・
これは何とかせねば・・・

海軍次官であった海軍大輔の川村純義でしたが、この時点では海軍卿が不在でした。

そのため、「事実上の海軍大臣」であった川村。

明治六年の政変では、「兄の様に慕っていた」西郷の下野に賛同せず、政府に残りました。

これは、川村が「西郷を見捨てた」のではなく、西郷の内意を受けたこともあったでしょう。

名前生年
大山 綱良1825
西郷 隆盛1828
大久保 利通1830
村田 新八1836
川村 純義1836
篠原 国幹1837
桐野 利秋1839
別府 晋介1847
幕末維新時代の有力旧薩摩藩士
川村純義

私が、何とか
西郷さんと大久保さんの間に入ろう!

川村は軍艦に搭乗し、急遽鹿児島に向かいました。

実際、この時に「西郷と大久保の間に入れる人物」は極めて限られていました。

その「極めて貴重な一人」であった川村が、迅速に動き、明治10年2月9日に鹿児島湾に入りました。

大山県令が大久保内務卿に「異常を報告」したのが2月2日。

現代とは異なり、通信状況がだいぶ遅かった当時、1週間後に「すでに鹿児島湾に到着していた」川村。

川村純義

俺が何とかしなければ、
本当に激突してしまう・・・

川村純義

そして、私の故郷の
薩摩の同志たちが多数死んでしまう!

この「異常な速さ」こそが、川村の当時の危機感を物語っています。

川村が、いかに事態を超重視し、事態の危険性を認識していたか、を。

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