前回は「典型的山城・岡豊城を生み出した長宗我部の想い〜「往時の様子」が把握出来る城跡・訪問客が少ない城跡〜」の話でした。
比較的低い山に築城された岡豊城

高知県の岡豊城跡を訪問しました。
「城跡」とは言え、ほとんど森のような状況であり、城の痕跡は少ないです。

森の中の石段を上がってゆくと、開けた土地に、建物の基礎であった石が残っていました。

何ヶ所か、上のような「石の基礎」が残っている部分があり、それぞれが曲輪などであったようです。
この「詰下段」という場所は、「小さな曲輪」で、攻め込まれた際に迎撃する拠点でした。

この開けた部分は、岡豊城の最も高い部分であり、いわば本丸にあたる部分と思われます。
上の地図を見ると、山の地形を生かして、「山を丸ごと城郭化」した様子が分かります。
鎌倉時代初期に、土佐に入国したと伝えられる長宗我部氏。
最初は「宗我部」でしたが、近くの「宗我部」と区別するために「長」をつけて長宗我部となりました。

平安末期〜鎌倉初期に、土佐の中央部にある岡豊付近を拠点に定めた長宗我部氏。

ここ岡豊城を
長宗我部の拠点とする!





この土佐中央部から
長宗我部は発展するのだ!
おそらく当時も、この岡豊城から長宗我部の領土を見渡していた代々の長宗我部氏。
山城である岡豊城ですが、「それほど高くない山」に築城されたことが特徴です。


岐阜城が建築された稲葉山(金華山)と比較すると、岡豊城の山の低さがよく分かります。
中央部から飛躍した長宗我部:山国であり海国であった土佐


現代の四国の地形図が上の写真です。
地形は、鎌倉以降から現代に至るまで、そう大きくは変わっていないはずです。
そして、土佐及び四国に限らず、全国において「アバウトな地図」しかなかった鎌倉初期。
鎌倉初期から室町期、続いて戦国期に、土佐中央部を拠点とした長宗我部。
これは、長宗我部にとっては「たまたま中央」だったと思われます。
長宗我部氏から少し遅れて、関白に連なる一条家の分家が土佐の南西部に拠点をつくりました。


古来から戦国末期までは、現代の「東京中心」ではなく「京・山城中心」であった国家像において、



わが土佐は、
京・山城に比較的近い位置だ・・・
土佐は、「京・山城中心の国家像」において、「中央領域の端」に位置しました。
そのため、讃岐・阿波は明確な「京・山城の文化エリア」であり、少なからず影響を受けていた土佐。
そして、おそらく「たまたま土佐中央」だった長宗我部氏にとって、大きなメリットがありました。
それは、目前に大きな高知(土佐)平野が広がっていたことでした。
四国の国々それぞれに、平野があり、讃岐平野が最も広いです。


そして、戦国末期の太閤検地の際には、四国で「最も低い石高」であった土佐。
国名 | 石高 |
伊予 | 36万6200石 |
阿波 | 18万3500石 |
讃岐 | 12万6200石 |
土佐 | 9万8200石 |
合計 | 77万4100石 |
太閤検地のデータを見ると、土佐の石高は四国の中で際立って低いのが分かります。
四国で「ただ一つ10万石割れ」であり、10万石未満は、他には伊豆、安房など小さな国々でした。
それなりの広さがあるにも関わらず、米の生産量が極めて低かった土佐は、経済力も弱い国でした。


その一方で、土佐では昔から捕鯨が盛んであり、「太平洋に面した有数の漁業国」でした。
そのため、石高には反映されませんが、「漁業による食糧確保+経済力」が潜在力にあった土佐。
いわば、「山国であり海ぐにでもあった」のが土佐でした。



我が土佐では、
米の収穫量が少ないが・・・



捕鯨を中心とした
巨大な漁業があるのだ!
おそらく、土佐湾を最も目前に見ることが出来た長宗我部氏は、「漁業の力」を武力に変えたのでしょう。



鯨と格闘する
漁民たちは、戦闘力も高いのだ!
そして、「鯨と戦う」力が、長宗我部氏の武士たちの力の根源の一つになったのでしょう。
いわば「漁業力を戦闘力に変換」して、急成長したのが長宗我部氏でした。
次回は上記リンクです。