前回は「坂本龍馬の「通りし道」の伝説〜「龍馬」ではなく「龍馬」の謎・坂本龍馬の「脱藩」と発想の大飛躍・封建制度における幕臣と藩士〜」の話でした。
同年に土佐藩脱藩した坂本龍馬と中岡慎太郎:倒幕と討幕の温度差

後世の視点から考えると、土佐藩は「坂本龍馬と中岡慎太郎が中心」のように見えます。
「薩長同盟の立役者」とも言える坂本龍馬と中岡慎太郎。

薩摩と長州が
争っている場合ではないぜよ・・・



討幕のためには、
過去は忘れて、未来を!
明治維新という大革命を果たす「大原動力」となった「薩長同盟」。



桂どん・・・
共に徳川を討とう!



よろしく頼む
ごわす・・・



薩摩は我が長州の
天敵である!



だが、そんなことを言っていては、
長州は滅亡する・・・



西郷さん、
こちらこそ・・・



こちらこそ
よろしく・・・
おそらく、薩長同盟締結の際、桂小五郎という名前だった木戸孝允の顔は引きつっていたでしょう。
「天敵同士を繋いだ」薩長同盟を産んだ龍馬と中岡は「維新の大回天者」です。


一方で、この「坂本龍馬と中岡慎太郎の像」は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」による点が強いです。
ここで司馬氏が「龍馬」ではなく「竜馬」とした点は、非常に重要です。
1866年に締結された薩長同盟の4年前、1862年に坂本龍馬は土佐藩を脱藩しました。



土佐藩にいては、
どうにもならんぜよ・・・
そして、同年に中岡慎太郎もまた土佐藩を脱藩しました。
後に「同志」とも言える立場になる坂本と中岡。
坂本の「倒幕」と中岡の「討幕」には巨大な温度差があり、「同じ志」ではありませんでした。
おそらく、この頃から、すでに坂本と中岡は「目指す方向が少しズレていた」でしょう。
それでも、脱藩当時は「どうしであったに違いない」のが坂本と中岡でした。
「坂本脱藩」と「中岡脱藩」:土佐藩と土佐勤王党


坂本龍馬と中岡慎太郎は、共に武市瑞山(半平太)が結成した土佐勤王党に入っていました。
名前 | 生年 | 所属 |
大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
武市 瑞山 | 1829 | 土佐 |
大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
「龍馬と中岡」の土佐藩と思われがちですが、武市瑞山こそが「龍馬と中岡を産んだ」人物でした。



土佐藩を挙げて
勤王化するのだ!
「土佐藩を丸ごと勤王化」する発想を持っていた武市瑞山(半平太)。
これは、「土佐藩は徳川の家臣ではなく、天皇の家臣」という発想でした。


ところが、「徳川のおかげで土佐藩主になった山内家」にとっては、



「勤王」は悪くないが、
「反徳川」はあり得ん!
「反徳川」の発想は「絶対に受け入れられない」ものでした。



とにかく、強引に
土佐藩を全勤王へ!



そのためには、邪魔な
参政・吉田東洋を消す!
発想が飛躍し過ぎて、「吉田東洋暗殺」に走ってしまった武市瑞山。



これをやっては、
反撃されて、弾圧されてしまう・・・
ここで龍馬には、「土佐勤王党の真っ暗な未来」が見えました。
そして、1862年3月に「先んじる」形で脱藩したのが龍馬でした。



なんとか、武市さんの
思いを遂げたいが・・・
対して、中岡慎太郎はギリギリまで「土佐勤王党の理想」に燃えた結果、捕縛されかかり、



捕縛されるくらいなら、
脱藩してやる!
1862年12月に「龍馬に遅れる」形で脱藩したのでした。


そして、愛媛県川辺町には「龍馬脱藩行」の伝承の道があります。
本当に「完全な山道」であり、気軽に歩ける雰囲気ではありません。


この「人がかろうじて歩ける」道なき道を突き進んだ坂本龍馬。
ひょっとしたら、「龍馬の9ヶ月後に脱藩した」中岡慎太郎も同じ道を通ったのかもしれません。