前回は「岐阜城と美濃国〜織田信長の野望と夢・桶狭間の戦いにおける「今川義元の真の狙い」・尾張制圧後の信長の目線〜」の話でした。
本拠地を移転し続けた織田信長
いよいよ、信長の「夢の城」であった安土城址へ向かいました。
武田信玄・上杉謙信などの戦国大名と、織田信長の大きな違いの一つに「居城を何度か変えた」ことがあります。
これは非常に大きな特徴で、信長以外にこれほど拠点を、次々に変えた大名はいないです。
むしろ、武田信玄も上杉謙信も「拠点は変えない」方針を貫きました。
それは、各武将の性格もありますが、武田家・上杉家と織田家の「家柄の大きな違い」も大きな要因でしょう。
名門・清和源氏の流れを汲む甲斐守護・武田家。
我が武田家は、
代々、甲斐守護だ!
拠点を
変える?
そんなこと考えもしないわ!
我が領土の中心は甲斐!
そして、守護よりも家柄は劣るものの越後守護代の長尾家。
我が長尾家は、
越後守護代の家柄!
そして、
上杉家を継いで、関東管領となった!
我が上杉家の領土が、
いかに広がろうと・・・
拠点は越後のまま、
そして上野周辺が第二拠点だ!
対して、拠点を移動し続けた信長。
本拠地は移動するのが、
合理的だ!
目標・目的地に
少しでも近づくのだ!
自分の目標へ向けて拠点を移動する事は、とても合理的なことです。
一方で、莫大な費用もかかります。
織田家は
経済力がある!
信長の若き頃から、津島湊など流通を抑えて、金銭が豊かだった織田家。
その織田家だからできた「本拠地の移転・移動」でした。
そして、家臣団からの反対もあるでしょうから、簡単にはできないことです。
引っ越しは
大変なので・・・
何を言っている!
早くしろ!
ははっ!
ただいまっ!
安土から見た「信長の未来」:「この世で初めての城」安土城
1567年に稲葉山城(岐阜城)攻略後、将軍足利義昭を推戴し、一気に京へ向かった信長。
とにかく
京だ!
その後、足利義昭との仲間割れ、三好残党との戦い、浅井・朝倉の死闘などを勝ち抜きます。
そして、近畿に広大な織田帝国を築いた信長。
我が拠点・岐阜城は、
織田家の東の端の方だ・・・
武田は、そのうち
討滅するとしても、少し東に寄りすぎだ・・・
拠点をもう少し
日本の中心・京に近くするのだ!
岐阜城へ拠点移転後10年とたたない1576年、信長は丹羽長秀に安土城築城を指示します。
長秀よ、
安土に日本一の城を築くのだ!
ははっ!
お任せを!
武田信玄の脅威が去り、浅井・朝倉との戦いが終わって一息ついた信長。
この世で見たことが
ない城を築くのだ!
唐にも南蛮にも
ない城だ!
余が初めて
この世に誕生させる城だ!
おそらく、織田信長の安土城建築に掛ける意気込みは大変なものだったでしょう。
そして、この「織田家超重要プロジェクト」を任された丹羽長秀は織田家重臣であり、信長の寵臣でした。
若い頃から、信長に一途に従ってきた長秀。
この大プロジェクトを任せるのは、
長秀、お前しかいない!
ははっ!
私が前代未聞の城の奉行を務めます!
たそがれの安土城趾:消失した幻の巨城
安土城は本能寺の変で消失してしまい、「城跡」となってしまった安土城。
山の麓から登ってみます。
まずは、石畳が続きます。
結構急で、山登りみたいな感じです。
この石畳は1582年に消失した時から、どのようになってきたのでしょう。
安土城には、織田家重臣や徳川家康の屋敷があった記録が残っています。
時々平地があって、羽柴(豊臣)秀吉邸跡もあります。
当時の秀吉の織田家における地位を考える時、これほど広大な屋敷が与えられたかは疑わしいです。
これは、秀吉の時代、あるいはもっと後の時代になって、「羽柴秀吉邸跡」としたのでしょう。
おそらくは、柴田勝家・滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らの屋敷もあったでしょう。
光秀は、すぐ近くの坂本城があったので、光秀の屋敷はなかったかもしれません。
織田信長や羽柴秀吉が、この階段を上ったのでしょう。
立派な
山城+水城だ・・・
信長様が、
いよいよ天下様へ王手!
そんなふうに「歴史の息吹」を感じながら、歴史的な場所を訪問するのは楽しいです。
諸説ありますが、この場所付近に、羽柴秀吉は邸宅を構えていたのかもしれません。
安土城の頃は秀吉は各地を転戦していて、ここでゆっくりしている時間は少なかったのでしょう。
忙しいが、
私は前線にいる方が、落ち着くのだ!
過去のある時点で、ここに実際に秀吉がいたのです。
信長に拝謁する時、
秀吉が・・・
まさにこの階段を、
駆け上がっていったのでは・・・
このように「勝手な夢想」をしながら、歩いてみるのも一興です。
次回は上記リンクです。