戦国で「学力随一」であった大大名・今川義元の誕生〜武士の世界から追放された義元少年・「お家騒動を忌避した」今川家〜|今川義元4・出身・エピソード

前回は「最先端の学問学んだ今川義元〜戦国時代変えた「太原雪斎との出会い」・お家騒動で大大名を産んだ今川家・お家騒動で誕生した北条家〜」の話でした。

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戦国大名 今川義元(Wikipedia)
目次

武士の世界から追放された義元少年:「お家騒動を忌避した」今川家

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臨済宗僧侶 太原雪斎(別冊歴史人 KKベストセラーズ)
太原雪斎

私は臨済宗の僧侶
太原雪斎と申します。

今川義元

今川家三男
芳菊丸と申します。

今川家で勃発したお家騒動の結果、側室の子であり三男であった義元少年は、仏門に出されました。

「仏門に出される」とは、当時、「武家の世界と縁を切る」ことを意味していました。

幼い頃は、「芳菊丸」と名乗っていた義元少年に対して、今川家は、

今川家

芳菊丸は、側室の子であり、
嫡流ではない・・・

今川家

さらに、三男であるから、
上に兄が二人いる・・・

戦国の世においては、お家騒動は日常茶飯事でした。

その一方で、基本としては「長男が家督を継ぐ」傾向が強く、「揉めた上で長男相続」が普通でした。

ただし、この頃は若くして病死することも多く、戦国の世であるため、戦死の可能性も高い時代でした。

そのため、「家督を継ぐ可能性を持つものは複数」残しておくのが、どこの家でも行われました。

「家督を継ぐ可能性がある人物が一人」では、その人物が死去した場合、「後継者不在」となるからです。

今川家

傍系で三男の
芳菊丸は、今川家には不要だ・・・

今川家

将来、「継承権がある」と勘違いをして、
またお家騒動の種となる・・・

「家督を継ぐ可能性がある人物」同士が、仲良くなり、「継承者を盛り立てる」のが望ましいです。

ところが、本人のみならず、側近の重臣たちが「継承の可能性がある人物」を煽る傾向があるため、

今川家

ここは、芳菊丸には仏門に
入ってもらい・・・

今川家

武家の世界と
縁を切ってもらおう・・・

このように「お家騒動に疲れた」今川家は、早々に三男・芳菊丸を仏門に出したのでした。

四男・五男ならばともかく、「三男が早々に仏門」は、かなり異例なケースでした。

それだけ、「お家騒動を忌避していた」のが、当時の今川家でした。

4歳の時に、「武家の世界から追放」となった芳菊丸でした。

戦国で「学力随一」であった大大名・今川義元の誕生

新歴史紀行
延暦寺:鐘楼(新歴史紀行)

事実上「武士ではなくなった」芳菊丸は、寺院で懸命に勉強しました。

太原雪斎

私は臨済宗のことのみならず、
中国からの書籍を多数読んでおります。

太原雪斎

色々と
教えて差し上げましょう。

この頃は、「教育」という観念がほとんどなく、武家は武道中心の世界でした。

そもそも、世の中が戦乱の世であり合戦が日常茶飯事の中、「教育どころではない」のは当然でした。

一部のゆとりがある、大名などは、後継者養育のために教育を行われました。

この頃の最先端の教育は、大陸である中国から伝わってきた史記や十八史略などでした。

太原雪斎

今日は、史記を
一緒に読みましょう。

今川義元

はい・・・
これは深い話ですね・・・

太原雪斎

大陸では、我が国より先に
文明が栄えました・・・

太原雪斎

そして、大昔から
様々な合戦が行われてきました・・・

太原雪斎

これらの史書を読むことから、
学ぶことは多いのです。

後に「桶狭間」での失態により、愚将扱いされることが多い今川義元。

その実像は愚将ではなく、むしろ聡明な若者であり、一流の大名であったと考えます。

名前生年
太原 雪斎(崇孚)1496年
今川 義元1519年
徳川 家康(松平 元康)1543年
太原雪斎・今川義元・徳川家康の生年

なんと言っても、後に徳川家康にも影響を与える太原雪斎に師事したことは、幸運でした。

そして、1536年、承芳と名前を変えていた義元少年に「大転機」が訪れました。

兄・氏輝、次兄・彦五郎が、突然同日に亡くなったのでした。

太原雪斎

承芳様・・・
お兄様二人が突然死去しました・・・

太原雪斎

今川家を継承するのは、
貴方です!

今川義元

私が、今川家を
継承するのですか!

当時、18歳(数え年)だった義元少年は、突然「二人の兄が当日に死去」で今川当主となりました。

この「二人の兄が同日死去」は、偶然であるはずがなく、何らかの陰謀による暗殺でしょう。

このあたりの状況に関しては、資料が極めて乏しいため、真相は不明です。

おそらく「嫡流同士の派閥争い」の結果、「共倒れ」となったのでしょう。

太原雪斎

将軍・義晴様から
偏諱を受けて、義元様です!

今川義元

私は、今日から
今川義元である!

ここで、超名門・今川家は、足利将軍家から「大事な義の字」の偏諱を受けました。

代々、「義」が付けられる「将軍家の名前」が偏諱されるのは、諸大名の中で別格の証拠でした。

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戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
長尾景虎

この長尾景虎、
将軍・義輝様から偏諱を受けた!

長尾景虎

義輝様から「輝」の字を
頂き、輝虎と名乗る!

後の時代、将軍・義輝から偏諱受けた若き上杉謙信は、長尾景虎から長尾「輝虎」と改名しました。

長尾景虎

本当は、「義」の字を
頂きたかった・・・

守護大名出身の長尾家は、そもそも、守護大名であり将軍家と繋がりが深い今川家とは別格でした。

今川義元

この今川義元が
今川家を飛躍させる!

そして、1836年、若い頃から十分に勉強し、おそらく諸大名の中では「学力随一」であった義元。

ずっと「武家であり続けた」他の家の継承者と異なり、「武道は劣る」立場ではありました。

太原雪斎

一生懸命学ばれたことを
活かせば、最強の大名になれるでしょう・・・

その一方で、「教養・学びの力」を転化させれば「最強大名になりうる」今川義元。

戦国の時代に、「異質すぎる、深い教養を持つ」大大名・今川義元が誕生しました。

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