琉球王・尚寧王の叫びが感じられる浦添ようどれ〜元和偃武と島津侵攻・室町から戦国時代の始まりに成立した琉球王朝・将軍足利義教の恐怖政治〜|浦添城跡と浦添ようどれ2・琉球王朝の夢の跡

前回は「広大な海を支配してキラリと光っていた琉球王朝〜浦添城跡と琉球王朝の歴史・南に向かった島津家と琉球〜」の話でした。

目次

室町から戦国時代の始まりに成立した琉球王朝:将軍足利義教の恐怖政治

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浦添城跡・浦添ようどれ(新歴史紀行)

荘厳な佇まいの浦添城跡を訪問しました。

現在「沖縄県」として、日本の一部となった琉球は、かつては完全な独立国でした。

1429年に成立した琉球王朝は、代々琉球王が統治してきました。

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室町幕府第六代将軍 足利義教(Wikipedia)

当時の日本を納めていたのは足利将軍であり、琉球王朝が成立した1429年は第六代将軍 足利義教の治世です。

足利義教

将軍である私に歯向かう奴は
全員消してやるわ!

まだまだ足利家の力が強力であった当時、大変な暴君で「恐怖政治」を敷いたと言われる足利義教。

将軍就任前は、天台座主だった義教は天台宗の勢力を取り込もうとして、

足利義教

天台宗及び総本山の
延暦寺は私に従え!

強権を貫こうとした義教は、延暦寺まで支配下に収めることを目論みました。

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延暦寺:阿弥陀堂(新歴史紀行)

延暦寺に関する話は、上記リンクでご紹介しています。

足利義教

延暦寺を
潰すのだ!

ついに、延暦寺に攻め込むという暴挙まで犯した将軍 足利義教。

延暦寺

さすがに我が延暦寺も
将軍を敵に回すのは厳しい・・・

延暦寺側も折れるところは折れ、将軍家と延暦寺は和睦にやっと至りました。

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戦国大名 織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
織田信長

延暦寺を
焼き討ちにせよ!

「延暦寺攻撃」と言えば、1571年の「織田信長の焼き討ち」が有名です。

その130年ほど前の1433年に、延暦寺を攻撃したのが将軍 足利義教でした。

足利義教

延暦寺すら
私の意のままだ!

天台宗の総本山であり、当時は最高学府でもあった延暦寺を押さえた足利義教は調子になりました。

足利義教

私が全てのことを
決めるのだ!

足利義教

私の意向に反するものは、
名乗れ!

足利義教

私がその所領全てを
取り上げてやる!

こんな将軍がいては、諸大名はたまったものではありません。

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第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)

9代後の第十五代将軍 足利義昭の頃は、まったく実権がなくなり、京から追い出された足利将軍家。

大して実権を持たない足利義昭が、

足利義昭

私に逆らうものは、
所領召し上げ!

こう諸大名に「圧力をかける」のと、実権をバリバリ持っていた足利義教が、

足利義教

私に逆らうものは、
所領召し上げ!

こう諸大名に「圧力をかける」のでは、影響力において全く次元が違う状況でした。

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書写山圓教寺(新歴史紀行)
赤松氏

このままでは
足利将軍家に潰される・・・

こう強い懸念を抱いた、播磨の名家 赤松氏は「義教を消す」ことを決意しました。

赤松氏

よしっ!
こちらから先に将軍を倒す!

足利義教

な、なにっ?!
こんな馬鹿な・・・

将軍 足利義教は暗殺されてしまいました。

そして、関東地方の永享の乱にも積極的に関与した将軍 足利義教.

この意味では、安定した時代から戦国時代に入る頃に成立したのが琉球王朝でした。

琉球王・尚寧王の叫びが感じられる浦添ようどれ:元和偃武と島津侵攻

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浦添城跡・浦添ようどれ(新歴史紀行)

浦添城後の中を歩き、「浦添ようどれ」へと至る道を歩んでゆきます。

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浦添城跡・浦添ようどれ(新歴史紀行)

「浦添ようどれ」は、英祖(えいそ)王(在位1260-1299)と尚寧(しょう・ねい)王(在位1589-1620)の陵墓です。

英祖王は琉球王朝の前に存在したと思われる、琉球国の中山王です。

300年以上離れた二人の王が「同じ場所に埋葬されている」のは、不思議であります。

「ようどれ」とは、夕どれ=夕方の波風が静まる時という意味で、沖縄独特の言い回しです。

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浦添城跡・浦添ようどれ(新歴史紀行)

元々は、英祖王の墓であった浦添ようどれは、1620年に尚寧王によって改修されました。

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尚寧王(Wikipedia)

尚氏が国王を続けた琉球王朝では、名前が同じ「尚」氏であっても、異なる系統が王位を継ぎました。

第二尚氏王統第七代の尚寧王は、1589年から1620年に王位につきました。

まさに、日本の戦国時代が終わり、豊臣政権から徳川政権に移行する時期に琉球王であった尚寧王。

尚寧王

英祖王の墓を改修して、
我が琉球王の先達を祀るのだ・・・

尚寧王の治世、それまでは比較的平穏だった琉球が大きな「時代のうねり」に巻き込まれました。

戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)
島津義弘

琉球を我が島津家の
支配下に置くのだ!

戦国最強の大名家にして、「最も琉球に近い」存在だった薩摩藩が攻め込んできました。

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戦国大名 徳川家康(Wikipedia)
徳川家康

元和偃武!
もう合戦は終わり!

1603年に徳川家康が徳川幕府を開設し、初代将軍となって、世の中が急速に平和に向かいました。

この後の1615年に、大坂冬の陣・夏の陣が勃発しますが、戦国時代と比較すれば平和な時代です。

島津義弘

我が薩摩が琉球を
支配下に置くことが、徳川のためです!

この「島津の発想」は、徳川家の元和偃武の方針に真っ向逆らうものでした。

徳川家康

島津めが、
領土を広げようとな・・・

徳川家康

まあ、南の島まで徳川の影響下におくのは
大変すぎるから・・・

徳川家康

島津に
任せておくか・・・

そして、黙認する方針をとった徳川家康。

島津義弘

よしっ!
一気に琉球を叩くぞ!

よりによって、島津家が万全の体制で乗り込んできては、琉球王朝が敵うはずがありませんでした。

尚寧王

やむを得んな・・・
島津に従おう・・・

こうして琉球王であった尚寧王は、独立国でありながら薩摩島津藩及び明に両属する形になりました。

尚寧王

島津に従うことこそが、
琉球王朝と民の生き延びる道・・・

訪問した時は、筆者一人だけであった浦添ようどれは、とても静かな環境でした。

静かな静かな空気の中で、琉球を治め続けた琉球王たちの叫びが聞こえた気がしました。

尚寧王

超大国・明に従うのは
仕方ないが・・・

尚寧王

これこそが・・・
これこそが琉球の民のため・・・

それは、幕藩体制の一公国・島津に屈せざるを得なかった「尚寧王の叫び」だったのでしょう。

次回は上記リンクです。

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