広大な海を支配してキラリと光っていた琉球王朝〜浦添城跡と琉球王朝の歴史・南に向かった島津家と琉球〜|浦添城跡と浦添ようどれ1・琉球王朝の夢の跡

前回は「「真の小京都」であった唯一つの典雅な都市・一乗谷〜朝倉家の力の源泉「海と港」から遠い「谷城」の国都・中興の祖朝倉敏景が築いた街〜」の話でした。

目次

浦添城跡と琉球王朝の歴史:南に向かった島津家と琉球

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浦添城跡・浦添ようどれ(新歴史紀行)

沖縄県の那覇市からほど近い位置にある浦添市。

浦添市には、浦添城跡と浦添ようどれがあります。

第二次世界大戦末期の凄絶な沖縄戦などで、多くが被災しましたが、復元されています。

新歴史紀行
京・山城中心の日本(新歴史紀行)

古来から、京中心であった日本の歴史において、沖縄は独自の文明・文化を持っていました。

更に、独自の王朝である琉球王朝を有していた沖縄は、元々は明らかに「別の国」でした。

そして、昔は琉球王朝から「琉球」と呼ばれていた沖縄。

琉球が日本の歴史の表舞台に登場するのは、薩摩の島津氏によってであると考えられます。

戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

多数の戦国大名が登場した戦国時代において、ある意味、島津氏は「別格の存在」でした。

島津義弘

我が島津は、
鎌倉以来の名家なのだ!

源頼朝の時代から続く名家であり、守護出身であった島津家。

「守護出身」は武田・大友・今川などもあり、日本有数の名家・名族であった島津。

戦国時代末期に、九州を北へ、北へと侵攻続け、「九州統一目前」となった島津。

1586年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)
島津義弘

もうすぐ九州統一
ごわす!

関白 豊臣秀吉(Wikipedia)
豊臣秀吉

ちょっと島津よ!
待ってもらおうか!

豊臣秀吉

もう戦いはやめて、
大友などに領土を返しなさい!

島津義弘

氏素性もない秀吉なんかに、
我が島津が従えるか!

豊臣秀吉

ならばよかろう!
豊臣の力を思い知るが良い!

島津義弘

く・・・
我が島津は最強だが、大軍すぎる・・・

豊臣秀吉

島津は、
薩摩・大隅に引っ込んでなさい!

そして、「九州全土」を目前としながら、薩摩・大隅に閉じ込められてしまった島津。

その結果、「北へ北へ」と伸びていた島津の発想は、グッと南に押し戻されることになりました。

島津義弘

北へゆき、大友などが
貿易していた港を支配下にしたかったが・・・

戦国時代の頃から、大陸・アジアとは船によって様々な貿易・交易をしてきた日本。

更に、スペイン・ポルトガルなどとの交易も始まり、港の重要性が急速に高まっていました。

ここで、島津家が九州統一とまで行かなくても、九州の南半分ほどを持っていたら、

島津義弘

まあ、肥後あたりも
良い港がつくれそうだ・・・

となったかも知れませんが、秀吉の逆鱗に触れてしまい「元の木阿弥」状態となった島津。

島津義弘

仕方ない・・・
南に目を向けよう・・・

島津義弘

南には広大な海が
広がっている・・・

島津義弘

南の島を占領すれば、
広大な海が手に入る!

こう考えた島津家は、戦国末期から江戸時代初期にかけて琉球へ侵攻しました。

そして、琉球を支配下に治め、琉球は「島津に治められた」歴史があります。

広大な海を支配してキラリと光っていた琉球王朝

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浦添城跡・浦添ようどれ(新歴史紀行)

この島津家の「一方的侵攻」に対して、琉球も大いに戦いました。

ところが、戦国最強の島津が相手では、「相手が悪すぎた」のが現実でした。

琉球側から見れば、

私たちは、中国(明)と仲良く
しており、交易もしている・・・

日本とも仲良くして、
交易しても良いのだが、なぜ攻めてくる?

と考えていたでしょう。

当時の琉球は琉球王朝が支配したまま、島津家の傘下に入ることになりました。

一方で、中国の冊封を事実上受けていたとも言える存在だった琉球。

我が琉球は独自の王朝・琉球王朝によって
成り立っているが・・・

明(中国)の支配下に
あったのは、明が超大国だから分かる・・・

だが、なぜ薩摩の島津の
支配下にもならなければならないのか・・・

琉球の国土と比較すると、巨大すぎる国土を持っていた明。

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明朝の領土(Wikipedia)

戦国当時の日本は、北海道は松前氏が函館付近のみを治めていた状況でした。

当時の日本と明(中国)の国家の規模、GDP等を比較すると「断然、明が上」です。

歴史ある我が琉球王朝が、
二つの国の支配下に・・・

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琉球王朝の版図(Wikipedia)

沖縄本島のみならず、奄美大島等の周辺の島々も支配下に治めていた琉球王朝。

1429年に成立した琉球王朝は島津氏からの攻撃を受け続け、1609年に支配下に入ることになりました。

我が琉球王朝は
180年続いてきたが・・・

ここで、島津家としては「琉球を完全支配」したかったでしょうが、

島津義弘

琉球は明の支配も
受けているから・・・

島津義弘

あまり支配を強めると
明との合戦になってしまう・・・

かつて、文禄・慶長の役で明軍と戦い、大いに打ち破った経験を持つ島津義弘。

ところが、その時は「全日本の一部」だった島津。

「島津単独で明と戦う」選択肢はありませんでした。

島津義弘

やむを得ん・・・
琉球王朝は尊重して、支配しよう・・・

こうして、明と薩摩の両方とうまく付き合った琉球王朝は存続しました。

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浦添城跡・浦添ようどれ(新歴史紀行)

そして、明の後の清の支配も受けながら、うまく時代を切り抜けた琉球王朝。

広大な海を支配して、キラリと光り続けた存在であった琉球王朝は1879年まで存続しました。

1429年から1879年まで、450年ほどの長期に渡り存続した類まれなる王朝となった琉球王朝。

この浦添城跡の力強い城壁をみると、長い歴史のみならず「力強い何か」を感じることが出来ます。

世界で、ただ一つ琉球王朝だけが持つ「広大な海の支配者」としての力強さを。

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