前回は「明智光秀 3〜鉄砲軍団織田家における光秀の軍事的役割〜」の話でした。

今回は滝川一益です。
長篠の合戦の際、織田家の鉄砲隊の指揮官として、滝川一益・佐々成政等触れました。
特に、織田四天王の一人として名高い滝川一益。
高名な織田四天王ですが、僕は中学生の頃、羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家・滝川一益の四人だと思っていました。

しかし、実際は違うようで、柴田・滝川・丹羽・明智の4名を指すことが多いようです。
あるいは「木綿藤吉、米五郎左(丹羽)、かかれ柴田、のき佐久間(信盛)」と言われた人物たち。
この「羽柴・丹羽・柴田・佐久間の4名」を指すこともあるようです。

後に天下を取る秀吉は「別格」かもしれませんが織田四天王ならば、やはり秀吉は入って欲しい。
あるいは、羽柴・柴田・滝川・丹羽・明智で「織田五人衆」が相応しいかもしれません。
「四天王」の方が、秀吉達を表現するにはふさわしいと思います。
丹羽長秀は、信長の信頼が極めて厚かった人物。
のちに、織田家が興隆した頃、信長が朝廷に申請して、家臣に官位を受領します。
秀吉=筑前守、明智=惟任日向守、柴田=修理亮、滝川=左近将監等の官位です。
光秀と丹羽長秀だけは、例外的に九州の名族である惟任、惟住の性を与えられます。


我が重臣たちに
官位をつかわす!
しかし、長秀だけは



私は、
五郎左のままで結構です。
と信長に反論して、官位は受領しなかったようです。
専制君主 信長に対してこんな反抗的な態度をしても、信長に



五郎左は
仕方ないか。
と思わせた長秀。
それだけ丹羽長秀に対する、信長の信頼と実績が抜群だったのでしょう。
羽柴・明智同様に出自は謎が多い、滝川一益。
甲賀出身とされますがよく分かりません。
調略と軍事的能力は抜群だったようで「進むも退くも滝川」と言われました。


滝川一益は、織田家の勃興期に伊勢を任されます。
そして、調略を主とする軍事活動によって、徐々に伊勢を織田家の支配下に納めてゆきます。

