前回は「昭和天皇「極力陸海軍協調を」〜「お叱り」から突然「組閣命令」へ・来栖特命大使派遣の真意・日独伊三国同盟調印者への米の冷たい視線〜」の話でした。
「絶対不可能」日米協調邁進目指した東條内閣:「絶対に平和限らぬ」明言

東條英機天皇陛下から
組閣の大命を受けた・・・



そして天皇陛下は
日米協調を私に命じた・・・
1941年10月18日に成立した東條英機内閣。


この当時の経緯を、昭和天皇は戦後間もなく語った「昭和天皇独白録」に記録に残しました。
1.九月六日の御前会議出席者
2.帝国陸軍を抑えられる者
3.帝国海軍はなし



東條が首相に選ばれることに
なったのである。
突然、内閣を投げ出してしまった近衛首相の後継首相の人選は「消去法」で行われました。
上の条件を考えると「東條英機しか選択肢に残らない」状況でした。



東條は、私の気持ちを汲んで
組閣した。



そして、来栖(三郎)を華府(ワシントン)の
野村大使の許に送った。
そして、大急ぎで、野村米大使に加えて来栖米大使を特命大使として追加派遣した東條内閣。



米大使二人体制で、
なんとか対米協調を!
この時期は、どう考えても日米協調は不可能な状況でした。
東條英機首相も、この「日米協調は不可能」であることは分かっていたはずでした。
その一方で、天皇に対して「忠狂」とまで評されるほど、忠実だった東條英機。



東條よ・・・
なんとかして日米協調するのだ・・・



はっ・・・
なんとか取り組んで参ります・・・
「日米協調は不可能」と分かっていながら、東條英機は「日米協調へ邁進」せざるを得ませんでした。



近衛の手記に、東久邇宮を
総理大臣に奉戴云々の記事があるが、



之は陸軍が推薦したもので、私は
皇族が政治の責任者となる事は良くないと思った。
東久邇宮は、戦後、「終戦処理内閣総理大臣」として登場します。
鈴木貫太郎内閣がポツダム宣言受諾=正式降伏後の事で、この時は「皇族はダメ」と却下した昭和天皇。



尤も軍が絶対的に平和保持の方針で
進むと云うなら、



必ずしも拒否すべきではない、という考えを
木戸をして軍に相談させた処、



絶対に平和になる、
とは限りません。



東條の話によれば、絶対に平和になるとは
限らぬと云う事であった。
東條英機は、昭和天皇に対して「絶対に平和は限らない」と正直に述べていました。
後世、「悪の権化」のように語られることが多い東條英機ですが、昭和天皇に対しては常に忠実に、誠実であり続けたのでした。
東久邇宮「理解できぬ」開戦論者東條首相:皇族総長登場と陸海軍混乱


近衛首相の後継首相は、消去法で「東條英機しかいない」状況の中、模索が続きました。



それで、若し皇族総理の際、
万一戦争が起こると皇室が開戦の責任をとる事になるので、



良くないと思ったし、
又、東久邇宮も之を欲していなかったので、



陸軍の要求は之を退けて
東條に組閣をさせた次第である。
近衛首相が内閣を投げ出した191年10月16日、「戦争の可能性」を十分認識していた昭和天皇。
ちなみに、東久邇宮は、玉音放送直後に退陣した鈴木内閣の後継首相となります。



近衛によって首相に擬せられた
東久邇宮は、東條首相の出現に驚き、



その日記に
こう記している。



東條は
日米開戦論者である。



この事は陛下も木戸内大臣も
知っているのに、



木戸がなぜ開戦論者の東條を後継内閣の
首班に推薦し、



天皇陛下がなぜこれを御採用になったか、
その理由が私には分からない。
この東久邇宮の日記の記載は極めて重要と考えます。
昭和天皇は「日米協調」を東條首相に命じましたが、東條が「開戦論者」であることを十分に認識していました。
この点で、「東條に組閣大命降下」した昭和天皇の行為を「分からない」と記録に残した東久邇宮。



尚此際、皇族を参謀総長と
軍令部総長にした事について付言する。


この時、昭和天皇が避けた「東久邇宮首相」でしたが、皇族は超重要な役職に就くことがありました。



閑院宮を参謀総長にしたのは(昭和六年十二月)、
当時陸軍部内に派閥の争いが非道くなって、



誰も総長に出る者がなく、
閑院宮に御立ちを願う外はないと云うことであったが、



尚慎重を期し、西園寺の意見を徴した上で、
閑院宮に参謀総長になって頂いた訳である。



海軍も、ロンドン会議以来、内部は乱れていたが、
既に陸軍に閑院宮の先例が出来たので、



海軍の要求を容れて、伏見宮に
軍令部総長(昭和七年二月)、・・・
ここで、「昭和天皇独白録」において、昭和天皇の言動は、(以下の部分、書き落としか)と続きます。
どうやら、記録が散逸しているようですが、若干妙でもあります。
敗戦後、昭和天皇が独白した記録は、「文章だけ」であり、「音声を録音しなかった」ようです。
とにかく、戦前の大日本帝国は、帝国陸海軍が乱れた結果「皇族総長」が登場した歴史でした。


当時は、「別格」の存在だった皇族が総長になる事により、様々なメリットとデメリットがありました。
その中、昭和天皇は、なんとか軍部をコントロールしようとしていました。

