前回は「第一次川中島合戦を「やや制した」武田信玄〜川の流通路の要衝川中島の重要性・海がない甲斐と信濃・守護武田家と守護代長尾家の格の違い〜」の話でした。
数少ない守護大名上がりの今川家と武田家
武田晴信と長尾景虎が激突した第一次川中島の戦い。
川中島第N次の戦い | 年 |
1 | 1553 |
2 | 1555 |
3 | 1557 |
4 | 1561 |
5 | 1564 |
村上義清を追っ払い、辛くも長尾景虎を撃退した晴信。
まさか、この後四度、合計五度も戦うとは「夢にも思ってなかった」晴信。
若き長尾景虎の「高いテンション」を感じた信玄は、「もう一度は戦いがありそうだ」と考えました。
なんとか勝ったが、
また景虎はやってきそうだ。
「また謙信が来襲する」と考えた晴信。
後方を
固めよう!
「対謙信を優先する」と考えます。
これ発想自体は非常に「自然な流れ」であり、
まずは今川と
同盟を結びたい・・・
こう考えた晴信。
そもそも武田家と今川家は隣国の「お互い守護」であり、関係が深かったのでした。
父上を
追放して、私が甲斐国主に!
若き晴信が重臣たちに担がれて、実の父・信虎を追放した時。
信虎を追放した先は、他ならぬ今川家でした。
今川殿!
父を頼みますぞ!
おのれ・・・
晴信・・・
何はともあれ「隠居させた父親の保護先」とするのは、相応の信頼関係が必要です。
第一次川中島合戦の頃には、すでに武田・長尾・北条・今川・大友・斎藤・朝倉などが大大名でした。
その中で、極めて少数であった「守護大名上がりの戦国大名」だった武田と今川。(他に大友)
おそらく、武田・今川両家には「他家とは別格」意識があったでしょう。
関東の大勢力・北条家との連携
今川家と同盟の折衝を始めた武田家に対して、今川家は考えます。
武田家同様に「内輪揉め」が続いて権力を握った今川義元。
武田と結ぶのは、
メリットが大きい・・・
今川は、三河で
戦い続けている織田に集中したい・・・
北条家も
抱き込めたら尚良いのだが・・・
義元様・・・
北条も含めて、三国同盟にしては!
三国同盟か・・・
それは良さそうだのう・・・
提案したのは今川義元の軍師格だった太原雪斎と言われています。
関東の
北条家か・・・
当時、新興勢力だった北条家。
侵攻勢力ながら、当時急成長していた北条家は、石高では武田・上杉を上回る存在です。
我が武田・今川・北条が組めば、
天下に敵なしだのう・・・
西の武田・今川と組めば、
関東制圧に専念できる!
北条家・今川家との甲相駿三国同盟を締結しました。
海を求めた武田信玄:理想的軍事同盟の甲相駿三国同盟
この「双方の背後を固める」と言う意味で理想的な三国同盟だった甲相駿三国同盟。
この同盟を締結するには、双方ならぬ三方で相当な協議を重ねたでしょう。
とにかく、お互いに利益がガッチリ噛み合って成立した甲相駿三国同盟。
甲相駿三国同盟を締結したのは1554年で、晴信33歳の時でした。
これで、
北上に集中できる!
まだ、若手ながら非常に老練な戦略家・晴信でした。
そして、善光寺を固めて信濃制圧を固めることを目論みます。
そして、あわよくば「格下」の長尾家を叩き潰して、越後併呑を目論んだ晴信。
さらには、越後の先に広がる「広大な世界」がありました。
それは、武田家は「もっていなかった世界」でした。
それは「無限に広がる」海です。
海に・・・
海に出たい!
交易で、大きな軍資金を
得るのだ!
こうして、軍事・経済基盤を固めるためには、「上杉家を倒す」事がベストな選択肢と考えた晴信。
さらに、景虎と戦いを決断します。
晴信の視線の先には、川中島の先・越後が見えていました。
甲相駿三国同盟を
背景に越後を占領だ!
こう考えた晴信でしたが、「叶わぬ夢」となるとは思いもしませんでした。
次回は上記リンクです。