前回は「「井口を岐阜へ」改めた織田信長〜一気に降参させられた斎藤龍興・「正攻法」で攻めた若き信長・尾張に隣接する「西美濃三人衆」領土〜」の話でした。
足利義昭「上総介信長を頼りに思っている」:実は立場が弱かった織田家

1568年、いよいよ岐阜城を奪取し、美濃を支配下に収めた織田信長。

信長公記井口という地名をこの時改めて、
岐阜と名付けたのである。
そして、「井口」という地名を、突然「岐阜」という名前に変えた織田信長。
「岐阜」という名称は、沢庵が中国の「岐山」から採用して、提案した名前です。



本日より、この地を
岐阜と呼ぶ!
それにしても、「地名の名前を変える」という発想自体が、当時斬新でした。
「地名変更」によって、岐阜周辺の地域は「新たな時代」が始まったのでした。



翌年(1568年)のこと。
入京して将軍職に就こうとする足利義昭は、



六角義賢を頼ったが承知されず、
越前へ行って朝倉義景を頼っていたが、



なかなか上洛の
段取りにならなかった。





将軍になりたいのだが、
誰も予を奉じてくれない・・・
「流浪の民」のような存在だった「次期将軍になりうる人物」だった足利義昭。
当時、「足利義昭」は「足利義秋」という名前だった説が有力ですが、信長公記では「足利義昭」と統一して表記しています。
当時は、「当て字」の文化が強く、「読み方が同じであれば良い」発想だったので、「義昭」でも「義秋」でも、「どちらでも良い」時代だったと考えます。



そこで、



上総介信長を
頼りに思っている。



旨を、細川藤孝・和田惟政を
通じて信長に伝えた。





次期将軍第一候補の
義昭様が、「上総介信長を頼りに思っている」のです。
ここで、「足利・織田・豊臣・徳川の四時代を特等席で乗り切った」と言われる細川藤孝が東條しました。
ここで、「上総介である織田家を頼っている」と表現されている点が重要です。
後世の視点で「戦国時代」だった当時は、確かに「室町時代=足利時代」だったのでした。
「百日もたたないうちに征夷大将軍」足利義昭:足利家の絶大パワー





この足利尊氏が、
鎌倉幕府を倒した!



そして、この足利尊氏が、
室町幕府を設立した!
源頼朝が設立した鎌倉幕府を叩き潰した足利尊氏。
同じ源氏の流れでしたが、当時の鎌倉幕府は「北条家の幕府」でした。
| 年号 | 出来事 |
| 1185年 | 源頼朝、守護・地頭を設置 |
| 1192年 | 源頼朝、征夷大将軍に就任:鎌倉幕府創設 |
| 1333年 | 鎌倉幕府滅亡 |
| 1336年 | 足利尊氏、征夷大将軍に就任:室町幕府開設 |
| 1573年 | 室町幕府滅亡(諸説あり) |
| 1603年 | 徳川家康、征夷大将軍に就任:江戸幕府開設 |
| 1867年 | 徳川幕府滅亡(大政奉還) |
日本において、「三度存在した幕府」のうち、徳川幕府(江戸幕府)が最も長く存続しました。
その一方で、「一応存続していた時期」も含めると、上のように「237年続いた」のが室町幕府でした。
この点から考えると、三好に追われていた足利将軍家でしたが、その権威は絶大なものがあったはずです。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
そして、当時は「守護の時代」であり、各地を守護大名が納めていた時代でした。
「下剋上」であり、「守護でも守護代でもない三好家」が天下の時代でしたが、



守護ではない
三好の天下など、長続きせんわ・・・



余は、まず守護の六角家を
頼ろう・・・
本当は「守護の六角家を頼り、守護の六角家に奉じて欲しかった」足利義昭。





我が六角家は守護ですが、
今の足利家をお守りする状況にはない!
ところが、当時の六角家の当主・六角義賢(承禎)は、「三好寄り」の姿勢で、足利家の要望を却下しました。。



守護の六角がダメなら、次は
守護代の朝倉・・・・・
「仕方がない」ので、ランクを下げて「守護ではない守護代を頼った」足利義昭。





今は、一向宗との
死闘で手一杯で御座いまして・・・



我が越前にいらしたいなら、
手厚くもてなします・・・
ところが、「越前王」だった朝倉義景は、当時は、北方の一向宗との死闘で、「京に乗り込む」のは不可能でした。
ここで、一気に候補に上がってきたのが、「付近の新興勢力」だった織田家でした。



守護代ですらない
織田家か・・・



・・・・・



他に
いないのか?



我々も方々を当たりましたが、
なかなか・・・
将軍になった後の足利義昭の動きを見ると、「権威が大好き」な性格でした。
そして、「室町幕府の秩序」を大事にしたはずの足利義昭。
「守護代以下の織田家」を頼るのは、なんとも気が進まなかったはずです。



信長は、すぐに越前へ
迎えの者を派遣した。



将軍家が、我が
織田家を頼っている!



すぐに越前へ
使者を派遣せよ!
そして、異様なまでに迅速に対応したのが信長でした。



それから百日もたたないうちに
願いが叶い、



義昭は征夷大将軍に
就任することができた。



これは信長の手柄で。
名誉なことであった。
信長公記では、あっさり過ぎる描写で「足利義昭の征夷大将軍就任」を記述しました。
それにしても、「足利義昭のSOS」から「たった百日もたたないうち」というのは、いかにも迅速でした。
そもそも、朝倉家がおとなしく引き下がったとも思えません。



これからは、
織田家が将軍家をもてなします。



我が織田家に
お任せを!



織田、
だと・・・
後に、死闘を演じることになる、織田と朝倉。
実は、織田と朝倉は縁があり、「同じ斯波氏を補佐する立場の国衆」でした。
そして、朝倉は、越前でいち早く成り上がり「守護代になった」のでした。



織田は、
我が朝倉より格下・・・



冗談では
ないわ!
メンツを重んじる性格だった朝倉義景が、「おとなしく足利義昭を渡した」とは思えません。
この点で、「朝倉家から織田家への将軍家移動」だけでも「百日ほどかかる」はずでした。
ところが、「征夷大将軍就任」まで「百日たたないうち」でした。
これは、信長が迅速極まりなく、変幻自在な外交を行い、朝倉家から「穏便に」将軍家を移動させたのが、まずは最大の理由です。
それに加えて、おそらく京都では、



足利家の後継者で
征夷大将軍を継ぐものがいる、のか・・・



よしっ!
ならば、即、征夷大将軍に任命!
このように「足利家の正当な後継者ならば、即、征夷大将軍」の姿勢だった朝廷。
この「百日たたないうちに征夷大将軍」は、当時の足利家の絶大なパワーを物語っていると考えます。
そして、その「超絶・足利パワー」を背景に、織田家は一気にのし上がってゆきます。

