前回は「たそがれの安土城址〜信長の夢の跡・消失した幻の巨城・本能寺の変〜」の話でした。
大坂と大阪:豊臣秀吉の大坂城

今回は安土城址に比べて、多くの人が一度は行ったことがあるかと思われる大阪城です
現代では大阪と表記しますが、元々は大坂です。

もちろん、豊臣秀吉が築城したのは大坂城でした。
そして、徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼした際の戦いは、大坂冬の陣・夏の陣です。
大坂から大阪へ:明治新政府の思惑

明治維新によって新政府が誕生した時、政府にとって最も大きな問題がありました。
「諸外国との外交」と内政面としては、「武士の扱いをどうするか?」です。
「武士の存在を抹消する」方針であった明治政府に、大勢の武士が反発しました。

大坂の坂の字の編は、
武士の士だ。



新たな世となり、武士は
消えてゆくのだから・・・



地名を大坂から
変更しよう!



それは良いが、
「おおさか」という地名は歴史がある!



「呼び方」は
変更しない方が良いだろう・・・
その際、大坂の坂が「士」編であることを不吉に思ったでしょう。
明治新政府は大坂を大阪に変更したのでした。
それ以来、現代では大阪府です。
ここでは歴史に関する内容ですので、大「坂」と表記します。
信長の夢と秀吉の野望:大坂城築城


小学校の時から歴史が大好きで、歴史の本ばかり読んでいました。
中学生の頃から、司馬遼太郎・海音寺潮五郎・吉川英治・池波正太郎などの本を読んでいました。
中でも「国盗り物語」は一番好きで、暗記するくらい読んだものです。
国盗り物語の秀逸で分かりやすい設定。
それは、織田信長と明智光秀が「斎藤道三の相弟子」であるかのような描写です。


非常に特徴的で印象的な描き方です。


まるで、主従関係にあった信長と光秀を対等に扱うかのような視点。
これは、多くの人が新鮮味を感じることでしょう。
斎藤道三が松波庄九郎時代からどんどん出世して、ついには美濃の国主になった話でした。
最近では「親子二代での所業」ということが定説化していますが、二代でもすごいことです。


当時、現代の日本とは大きく異なり、「京・山城中心」だった日本列島。
そして、信長は尾張から美濃へと領土を拡大し、「京・山城へは近江を隔てたすぐ先」となります。





京は
近いぞ!


そして、そのまま怒涛の勢いで、京へ侵入して広大な領土を得た信長。
その後、浅井長政・朝倉義景との死闘があり、武田信玄に悩まされるも、次々と敵を打倒しました。
そして、「天下が見えてきた」信長は、拠点を京都近くへ移動します。
移動した先が、近江国の安土だったのでした。



安土へ!
安土へ拠点を移動した信長は、当時は



いずれは
大坂へ!
と考えていた、と言われます。
ところが、本能寺の変で信長が横死してしまいます。
後を継いだのが、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉だったのです。





信長様の遺志を継いで、
大坂へ!
「信長の遺志を継いで」かどうかは真実は不明です。
何はともあれ秀吉は大坂の地で、信長の安土城を越える巨大な城を築城しました。
それが大坂城でした。