織田信長の夢と豊臣秀吉の野望・「日本のシンボル」大坂城築城〜豊臣秀吉の大坂城から「天下の台所」へ・大坂から大阪へ・明治新政府の「新首都構想」と漢字の変更〜|大坂城の歴史1

前回は「たそがれの安土城址〜信長の夢の跡・消失した幻の巨城・本能寺の変〜」の話でした。

目次

豊臣秀吉の大坂城から「天下の台所」へ

大阪(大坂)城(新歴史紀行)

今回は安土城址に比べて、多くの人が一度は行ったことがあるかと思われる大阪城です。

豪華絢爛なイメージがある大阪城。

現代では大と表記しますが、元は大と表記しました。

太閤 豊臣秀吉(Wikipedia)

戦国時代末期、豊臣秀吉が築城したのは大城でした。

豊臣秀吉

私の世となる
シンボルとなる巨大で豪華絢爛たる城・・・

豊臣秀吉

それを大坂の地に
建てるのだ!

新歴史紀行
豊臣期大坂図屏風(Wikipedia)

秀吉の時代の大坂は大変な賑わいであり、まさに「日本の中心」でした。

新歴史紀行
京・山城中心の日本(新歴史紀行)

古来よりずっと「京・山城」が中心・重心であった日本。

この日本において、水運が盛んであり最先端都市・堺を近くに持つ大坂の地は「全てが最高」でした。

新歴史紀行
初代徳川幕府将軍・戦国大名 徳川家康(Wikipedia)
徳川家康

豊臣家を
滅亡させよ!

そして、徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼした際の戦いは、大冬の陣・夏の陣です。

その後も、日本の中心の一つであり続けた大坂という都市。

新歴史紀行
航路図(Wikipedia)

江戸期を通じて、商業・流通の中心の地として「天下の台所」と呼ばれる大都市であり続けました。

大坂から大阪へ:明治新政府の「新首都構想」と漢字の変更

左上から時計回りに木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

明治維新によって新政府が誕生した時、

大久保利通

京都から遷都して、
大坂へ!

と時の実力者・大久保利通が考えるほどの都市であった大阪。

最終的には、「徳川幕府以来の行政機構が整っている」江戸が「事実上の首都」(奠都)となりました。

そして、江戸は東京と名を変えました。

大久保利通

江戸は東京となり、
新たな首都だな!

ところが、政府にとって最も大きな問題がありました。

「諸外国との外交」と内政面としては、「武士の扱いをどうするか」でした。

志士A

おい!一体誰が
「徳川打倒の戦い」を戦い抜いたと思っている!

志士B

そうだ!
俺たち武士が徳川の世を叩き潰したのだ!

「武士の存在を抹消する」方針であった明治政府に、大勢の武士が反発しました。

大久保利通

大坂の坂の字の編は、
武士の士だ・・・

大久保利通

新たな世となり、武士は
消えてゆくのだから・・・

大久保利通

地名を大坂から
変更しよう!

一度は「新首都に」と思った「大坂の名」を変えようと決意した新政府首脳。

木戸孝允

それは良いが、
「おおさか」という地名は歴史がある!

木戸孝允

なんと言っても、
江戸の長きに渡り「天下の台所」であったのだ!

木戸孝允

「呼び方」は
変更しない方が良いだろう・・・

新歴史紀行
大阪(大坂)城(新歴史紀行)

大久保・木戸たちは、大坂の坂が「士」編であることを不吉に思ったでしょう。

大久保利通

ならば、「おおさか」という
呼び方はそのままで・・・

大久保利通

「坂」を「阪」にしよう。
そうすれば、「士」編がなくなる!

明治新政府は大を大に変更したのでした。

それ以来、現代では大阪府です。

ここでは歴史に関する内容ですので、大「坂」と表記します。

織田信長の夢と豊臣秀吉の野望・「日本のシンボル」大坂城築城

龍馬がゆく(司馬遼太郎)

小学校の時から歴史が大好きで、歴史の本ばかり読んでいました。

中学生の頃から、司馬遼太郎・海音寺潮五郎・吉川英治・池波正太郎などの本を読んでいました。

中でも「国盗り物語」は一番好きで、暗記するくらい読んだものです。

国盗り物語の秀逸で分かりやすい設定。

織田信長と明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

それは、織田信長と明智光秀が「斎藤道三の相弟子」であるかのような描写です。

非常に特徴的で印象的な描き方です。

作家 司馬遼太郎(司馬遼太郎の戦国 朝日新聞出版)

まるで、主従関係にあった信長と光秀を対等に扱うかのような視点。

これは、多くの人が新鮮味を感じることでしょう。

新歴史紀行
戦国大名 斎藤道三(Wikipedia)

斎藤道三が松波庄九郎時代からどんどん出世して、

斎藤道三

俺は、京都の大きな油屋を営む
山崎屋の庄九郎!

斎藤道三

そして、美濃の土岐家の
大番頭でもあるのだ!

こうして、「大商店」の豊富な財力を背景に、美濃という大きな国を少しずつ奪取してゆき、

斎藤道三

役に立たない
土岐氏を追放して、俺が国主だ!

ついには美濃の国主になった話でした。

最近では「親子二代での所業」ということが定説化していますが、二代でもすごいことです。

いずれにしても、「国盗り物語」のストーリーは「大部分が脚色」であり、「嘘」です。

それでも「卓抜たるストーリー」で若者を惹きつける「圧倒的パワー」を持っていました。

まるで、庄九郎(道三)・信長・光秀たちが目の前にいるかのような描写力を持っている物語です。

新歴史紀行
江戸中心の日本列島(新歴史紀行)

現代の「江戸・東京中心」の日本とは大きく異なり、当時「京・山城中心」だった日本列島。

そして、信長は尾張から美濃へと領土を拡大し、「京・山城へは近江を隔てたすぐ先」となります。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
織田信長

京は
近いぞ!

1568年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

そして、そのまま怒涛の勢いで、京へ侵入して広大な領土を得た信長。

その後、浅井長政・朝倉義景との死闘があり、武田信玄に悩まされるも、次々と敵を打倒しました。

そして、「天下が見えてきた」信長は、拠点を京都近くへ移動します。

移動した先が、近江国の安土だったのでした。

織田信長

いよいよ
安土へ!

安土へ拠点を移動した信長は、当時は

織田信長

いずれは
大坂へ!

「次は大坂」と考えていた、と言われます。

v
本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

ところが、本能寺の変で信長が横死してしまいます。

後を継いだのが、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉でした。

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
羽柴秀吉

信長様の遺志を継いで、
大坂へ!

「信長の遺志を継いで」かどうかは、真相は不明です。

羽柴秀吉

安土城を超える
巨大で豪華絢爛な城を!

何はともあれ、秀吉は大坂の地で、信長の安土城を越える巨大な城を築城しました。

新歴史紀行
安土城図(歴史人2016年12月号KKベストセラーズ)

当時、時代の最先端を走っていたスペイン・ポルトガルなどの南蛮の宣教師たちをして、

南蛮人A

これほど巨大で豪華な城は
見たことがない・・・

ここまで言わしめた、当時「空前の豪華壮麗な巨城」であった安土城。

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安土城天主 信長の館(新歴史紀行)

この当時世界一の規模と豪華さを持ったで巨大なシンボルであった安土城の寿命は短いものでした。

1579年頃に完成した安土城は、1582年の本能寺の変の際に消失してしまいました。

消失した理由は、「信長の次男・信雄による放火」など諸説あります。

たった3年しか存在しなかった前代未聞の安土城に対して、

豊臣秀吉

我が大坂城は
未来永劫輝くのだ!

「大坂城は日本のシンボルであり続ける」と考えていたであろう豊臣秀吉。

「豊臣家のシンボル」を超えて、長きに渡り「日本のシンボル」となるはずであった巨大な城。

それが大坂城でした。

次回は上記リンクです。

新歴史紀行

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