前回は「村田蔵六「オランダの奴がなんだ!」〜大驚愕+反論不能の福澤諭吉・蘭学者から見て「発狂馬鹿集団」長州藩・下関戦争と異次元「武器のレベル」〜」の話でした。

幕末「私塾二強」松下村塾と適塾:塾風の巨大な相違点と適塾=蘭学研究所

村田蔵六や福澤諭吉ら、適塾門下生にとって、恩師であった緒方洪庵の通夜の席でのこと。
福澤諭吉どうダエ、
下関では大変なことをやったじゃないか。



何をするのか、
呆れ返った話じゃないか。
| 名前 | 生年 |
| 緒方洪庵 | 1810 |
| 大村益次郎(村田蔵六) | 1825 |
| 箕作秋坪 | 1826 |
| 大鳥圭介 | 1833 |
| 福澤諭吉 | 1835 |
実に多彩な人物たちを輩出した適塾。
幕末「私塾二強」である松下村塾と適塾では、雰囲気が全く異なりました。
学校の雰囲気を「校風」と呼びますが、この二つの「塾風」には巨大な相違点がありました。
| 名称 | 学問と雰囲気 | 著名卒業生 |
| 適塾 | 蘭学研究所 | 大村益次郎、福澤諭吉、 大鳥圭介、橋本左内 |
| 自主的傾向が強い | ||
| 松下村塾 | 吉田松陰に師叔 | 高杉晋作、久坂玄瑞、 前原一誠、伊藤博文 |
| 強烈な師弟関係 |





草莽崛起(そうもうくっき)
するのだ!



凡そ生まれて人たらば、
宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし!



志を立てるためには、
人と異なることを恐れてはならない!
とにかく過激な発言が多く、言動が全て過激派のようだった吉田松陰。
松陰神社に関する話を、上記リンクでご紹介しています。


そして、明治維新後、主に伊藤博文らの活動によって、「神になった」吉田松陰。


過激すぎる吉田松陰と比較しても仕方ありませんが、緒方洪庵は「普通の優れた人物」でした。
特に過激な発言は全くなく、上の肖像画の通り、穏やかな人物だったのが緒方洪庵でした。
そして、「吉田松陰こそが頂点」であった松下村塾。
それに対して、適塾では、優れた塾生が「塾頭(副塾長)」となって後進を指導しました。
村田蔵六、福澤諭吉は共に極めて優れた塾生であり、二人とも塾頭になりました。
いわば「自治的要素」が強く、各々が「蘭学を研究する意欲に燃える」人物が集まったのが適塾でした。
福翁自伝が明かす「村田蔵六の攘夷かぶれ」:真意が分からぬ福澤諭吉


福澤諭吉は、晩年に「福翁自伝」を著しています。
「福翁」と言うのは「福澤おじさん」くらいの意味であり、とても興味深い逸話が多数あります。



気狂いとは
なんだっ!!



殊にオランダの奴が
なんだっ!



モウ防長の士民は悉く死に尽くしても
許しはせぬっ!
当時、世界最強であった大英帝国の英語の書籍も、少しずつ入ってきていたであろう幕末。
それでも、幕府から「公認されていた」オランダ語の書籍は、日本では「洋書の王様」でした。
そして、「洋学といえば蘭学」であり、「蘭学研究所卒」卒業生・福澤にとって、



「オランダの奴が
なんだっ!」ってなんだ?
福澤は、村田がいう言葉が、全く理解できなかったでしょう。



実に思い掛けも
ないことで、



これは変なことだ、
妙なことだ・・・



と思うたから、
私はいい加減に話を結んで、



それから箕作の所に
来て、



大変だ、大変だ、
村田の剣幕はこれこれの話だ。



実に
驚いた!



というのは、その前から
村田が長州に行った、ということを聞いて、



朋友は皆心配して、
あの攘夷の真盛りに、



村田がその中に呼び込まれては、
身が危うい、



どうか怪我のないようにしたいものだ、
と、寄ると触ると噂をしているその所に、



本人の村田の話を
聞いてみれば、今の次第、



実に訳が
分からぬ。



一体、村田は、長州に行って
如何にも怖いということを知って、



そうした攘夷の仮面を冠って、わざと
力んでいるのだろうか、



本心からあんな馬鹿な
ことを言う気遣いはあるまい、



どうも
彼の気が知れない。





そうだ、実に
分からないことだ。



兎にも角にも、一切、
あの男の相手になるな。



下手なことを言うと、どんな
間違いになるか知れぬから、



しばらく別物にしておくが
良い。



と、箕作と私と二人いい合わせて、
それから外の朋友にも、



村田は変だ、
滅多なことを言うな、



何をするか
知れないから。



と気をつけた。
これがその時の実事談で、今でも不審が晴れぬ。
福澤は、晩年になっても、「村田の言動」が全く理解できませんでした。



当時、村田は、自身防御のために
攘夷の仮面を冠っていたのか、



または長州に行って、どうせ
毒を舐めれば皿まで、と言うような訳で、



本当に攘夷主義者になったのか
分かりませぬが、



何しろ私をはじめ
箕作秋坪その外の者は、



一時彼に驚かされて
そのままソーッとすておいたことがあります。
後に討幕司令官となった村田蔵六は、明治二年(1869年)に暗殺されてしまいます。
45歳(数え年、以下同)の壮年でした。
それに対して、1901年まで存命し、66歳で亡くなった福澤諭吉。
頭脳明晰な福澤ですら、晩年までとうとう「村田蔵六の真意」は不明でした。


