前回は「戦略的視野が一気に広がった織田信長〜美濃を制圧した信長の視線・足掛け8年の美濃侵攻・織田信長の動きをずっと見ていた明智光秀〜|織田信長10・人物像・エピソード」の話でした。
家柄が低かった「信長の織田家」:守護代ですらなかった織田家
もともとは、武田信玄のように守護の家柄ではなく、守護代ですらなかった信長の織田家。
戦国時代とはいえ、まだ室町時代の名残があった当時、守護・守護代の存在はある程度大事でした。
信長が誕生した頃の尾張には、「様々な織田家」があり「信長の織田家」は比較的低い家格でした。
後に天下人となる織田信長の家柄は、「大したことがなかった」のでした。
実際は、尾張南半分を占める「守護代の織田家の三人の家老の一人」であった織田信秀。
そこで、力を蓄えた信長の父・信秀でした。
高い才覚と強い軍事能力を持っていた織田信秀は、領土をガンガン広げて20万石ほどになった織田家。
1552年に織田家を継いだ信長は、
俺が尾張を全て
治めてみせる!
まだまだ若造だった信長は、今川義元を討って今川家を駆逐することに成功しました。
さらに本当に「尾張をほぼ統一」した信長。
これだけでも「凄いこと」だったのですが、さらに美濃へ侵攻し続け、美濃併呑に成功した信長。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
1567年に美濃を制圧した信長は、まだ34歳(数え年)であり、まだまだ若造でした。
武田家を抜き去り「旭日の如き勢い」の織田家
美濃を制圧して、「100万石以上の領土」を獲得して大大名に躍り出た信長。
100万石だ!
さらに領土を増やしてやろう!
非常に強い勢力の一つとなった織田家は、極めて強い勢いがありました。
この頃、甲信地方に強力な勢力を築いていた、守護出身の武田信玄。
我が武田軍団は
天下最強!
当時、「天下最強」と謳われた武田軍団でしたが、生産力がそれほど高くない甲斐が本拠地でした。
そして、信濃・上野・飛騨などで領土を拡大していた信玄。
我が武田家は
100万石に近いのだ!
100万石近い領土を持っていましたが、商業後進地域であった武田家。
石高も商業も
遥かに織田が上だ!
13歳年下の若造の織田信長は、この時点で武田家の経済力を遥かに抜き去ってしまいました。
まだ若造なのに、
もうここまで領土を広げたか・・・
東は家康に任せているから、
さらに西へ進むぞ!
そして、近江から京を見据えた信長。
旭日の如き勢いとなっていた織田家の元に、「次期将軍最有力候補」から使者が来ました。
織田信長が目をつけた「中世的大権威=足利家」
その信長のもとに、足利義昭からの使者として明智光秀が来ます。
生年は諸説ありますが、1528年生まれの可能性が高い光秀は、この時40近い年齢でした。
足利家の
明智です・・・
うむ・・・
信長である!
織田殿、美濃併呑、
おめでとう御座います・・・
織田殿のことは、
次期将軍・義秋様も頼りにしています・・・
義秋(義昭)が次期将軍になれるかどうかは、まだまだ未定ですが、
ぜひ、義秋様を庇護して、
上京して頂きたい。
と信長の力を頼りにしようとする光秀。
ふむ・・・
なるほど・・・
しかし、足利殿は今、
朝倉のところにいるではないか。
当時、将軍となる可能性のある足利義秋(義昭)は、越前・朝倉家に身を寄せていました。
実は、朝倉家と織田家は「縁が深い」関係です。
同じ守護・斯波氏を「補佐する家」同士であり、いわば「親戚に近い」関係の織田と朝倉。
そして、朝倉家は守護・斯波氏を補佐する実力者である「守護代」だったのです。
ところが、信長の織田家は、朝倉家より「格下」だったのでした。
我が朝倉が
織田と同じ家柄?
おい、我が朝倉家の方が
断然上だ!
信長の織田家は、
守護代・織田を補佐する家柄!
信長の出身の織田家は、守護代である織田家を補佐する「三奉行」の一人に過ぎなかった織田家。
我が朝倉家は
織田家などとは全然違う!
越前で50万石ほどを持つ朝倉家もまた、当時侮れない勢力でした。
信長など、
ただの出来星大名!
確かに、今、義秋様は
朝倉家におります・・・
しかし、朝倉義景殿は、
全く京都へ兵を進める気がありません・・・
これは良い大義名分が
できそうだ!
この時、信長は上杉謙信が「関東管領の威光」で猛烈なパワーを得たのを知っていたでしょう。
織田家が有している軍事力・経済力に、「足利家」という「中世的大権威」が加われば、
我が織田の軍事力・経済力に、
「中世的大権威」が掛け合わされる・・・
猛烈な力となりそうです。
ならば、私が
やろう!
信長は義秋(義昭)を奉じて、上京する決断をします。
次回は上記リンクです。