前回は「中世保持を目論んだ「中世の伝道者」上杉謙信〜軍神の肖像・越後の龍が越後統一へ・越後守護代から関東管領へ・打倒北条・領土を一気に拡大した景虎・権威x軍事力〜」でした。
長越後の龍・長尾景虎の猛烈なパワー:長尾から上杉へ
上杉憲政から「上杉家の家名相続」と「関東管領への就任」の要請を受け入れた長尾景虎。
もはや、
わが上杉家では、北条めに対抗できん・・・
残念
無念だが・・・
長尾景虎よ!
我が上杉を継いで、北条を叩き潰して欲しい!
よし!
分っかりました!
関東管領上杉家を継いだ長尾景虎は、上杉政虎へと変身します。
今日から、私は
長尾景虎ではなく、上杉政虎だ!
これで、守護代の家格から、
守護を飛び越えて、関東管領だ!
よしっ!
関東へ出撃!
そして、一躍関東に出撃し、猛烈な勢いで勢力拡張を成し遂げました。
これは、上杉謙信が「北条家の軍勢を次々と破って勢力拡張した」という状況ではありませんでした。
「関東管領」の威光が、猛烈に強かったのが大きな理由です。
私は、関東管領
上杉政虎である!
はは〜っ!
北条ではなく、
上杉家に従います。
現代と異なり、当時は比較的田舎だった関東地方。
その関東地方では、関東管領の権威は絶大です。
さらに若きニューフェイスで実力者である上杉景虎(謙信)への信頼感・期待感が大きな原動力でした。
あの上杉政虎という
人物、頼りになりそうだ・・・
北条に従っていた関東の国衆が次々と怒涛のように景虎に従属し、景虎の勢力圏が一気に広がります。
この時上杉謙信は10万(実数はせいぜい5〜6万程度と思います)とも呼称される軍勢を率いて、乗り込みました。
そして、小田原城を遠巻きに包囲しています。
さらに、鶴岡八幡宮で「関東管領の戴冠式」まで行っています。
1560年頃には、関東に広大な領土を持っていた北条家。
北条を
滅亡させよ!
北条家は「滅亡寸前まで追い詰められた」と言っても過言ではないでしょう。
歯軋りする北条氏康:関東管領の威光
上杉政虎だと?
もとは、長尾景虎か・・・
誰だ、
この若者は?
我が関東の覇王である北条家が、
こんな無様なことになるとは・・・
歯軋りして悔しがる北条氏康。
「名門」意識が強い三代目の氏康は、非常な名将でしたが、プライドも格別でした。
1554年に結んだ甲相駿三国同盟が大きく機能して、武田家・今川家に支援して欲しいのが実情です。
特に長尾家を地図上、側面から攻撃できる立場の武田家。
晴信よ!
軍事同盟の発動だ!
武田に大いに期待した氏康でした。
晴信よ!
長尾家を攻撃してくれ!
そして、
我が北条家を助けてくれ!
ところが、三国同盟は大きな節目を迎えていました。
この直前の1560年、桶狭間の戦いで今川義元が、織田信長に討たれてしまったのです。
そして、今川家が事実上機能不全に陥っていたのです。
信玄・氏康からみたら、若造の長尾景虎でした。
さらに4歳若い「超若造」の織田信長。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
武田信玄 | 1521年 |
上杉謙信 | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
その「超若造」信長が、満を持して戦国の世に殴り込みをかけてきたのです。
はっは〜!
織田信長、登場!
織田信長よりも19歳も年上の大ベテランの北条氏康にとって、
織田信長?
それは誰だ?
信長に対しては、この程度の認識だったでしょう。
桶狭間の合戦の衝撃:揺れる甲相駿三国同盟
考えもしなかった事態のあまりに大きな急変。
義元殿が討たれた、
だと・・・
我が領土の南の守りは、
どうなるんだ・・・
信玄ですら、しばらくは事態を静観せざるを得ない状況にあったのです。
同盟を結ぶ北条を
支援したいが・・・
景虎の勢いがあまりに強すぎて、
どうしようもない・・・
しかも、今川家が今後どうなるのかが、
全く分からぬ・・・
信玄からすれば、「動かない」ではなく、
迂闊に
動けん・・・
「動けない」が本音だったでしょう。
北条を
叩き潰せ!
関東を
我が手に!
戦国の最強軍団と言われる、武田騎馬隊と優れた家臣団を持つ武田信玄。
長尾景虎・織田信長というニューフェイスの壮絶なパワーに、
しばし静観して、情報を集める事に集中していたのでした。
長尾景虎の
ことを、よく調べよ!
信長も
気になる・・・
関東管領として、
関東武士を従えるのだ!
北条は
引っ込んでろ!
さもなければ、
我が上杉家に従え!
くっそ〜!
若造めが!
若き上杉政虎の勢いに対し、歯軋りして悔しがったベテランの北条氏康でした。
次回は上記リンクです。