前回は「若き日から卓越した軍事能力を誇示した織田信長〜多数の大勢力の中の中規模大名織田家・信秀の際立った軍事能力・信虎追放劇と晴信〜」の話でした。
「たった一日」だった関ヶ原の戦い:本能寺の変当時の足利義昭将軍

後世の視点から見ると、間違いなく「天下分け目」の戦いとなった関ヶ原の戦い。
ところが、「たった一日」で終了したのが、不思議な点でした。
「関ヶ原」以前の「天下分け目」の戦いは、諸説ありますが、小牧・長久手の戦いです。

本能寺の変で信長が横死した後、天下は乱れに乱れました。
当時は誰がどう考えても、織田家が天下を制覇するはずでした。
織田信長この信長が
天下を治めるのだ!
そして、信長が「何を考えていたか」は諸説ありますが、「何らかの形」で君臨するはずでした。
その「君臨の形式」が、「征夷大将軍ではなかった」説が有力です。
その理由は、信長の織田家が「平氏を名乗っていた」ことでした。
征夷大将軍は「源氏であることが前提」であり、平氏は就任することは「原則不可」でした。





征夷大将軍は
私なのだ!
信長が、征夷大将軍・足利義昭を京から追放した1573年を、「室町幕府の滅亡」と呼びます。
ところが、その一方で、足利義昭は、本能寺の変時点でも「現職の征夷大将軍」でした。
そのため、本能寺の変が勃発した1582年の時点では、



まだ、足利家主体の
室町幕府は健在なのだ!
当時は、「幕府」という言葉が存在しなかった説が有力ですが、室町幕府は「残存していた」とも言えます。
この頃、備後・鞆の地で「室町幕府らしき政治機構」を作っていた説が有力である義昭。



今後、天下を制するにあたり、
義昭をどうするか・・・
1582年当時の信長にとって、悩みの種は「諸大名との決戦」よりも「義昭との関係」でした。
「最下級大名」から天下制した織田信長:新たな「戦国の覇王」へ


そして、信長は1582年当時、悩みに悩んでいたでしょう。
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 今川義元 | 1519年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 長宗我部元親 | 1539年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 本願寺顕如 | 1543年 |
多数の戦国大名たちとの「死闘」を制した「戦国の覇王」織田信長。
織田家の「最大の敵」は、諸説ありますが、一般的には「武田家か本願寺」です。
そして、武田信玄は信長の13歳年上であり、本願寺顕如は信長の9歳年下でした。
著名な戦国武将を挙げると上の表であり、比較的若者の信長は「ちょうど中間の年齢」とも言えます。
この「ちょうど中間の年齢」という立ち位置もまた、信長が天下を制した理由の一つと考えます。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 島津家・武田家・大友家・今川家・大内家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家・三好家 |
| 国衆(地侍) | 織田家・徳川家・毛利家・北条家・伊達家・(豊臣家) |
そもそも、当時の「家柄」では、「最低ランクに近い」立場だったのが、信長の織田家でした。
戦国の世に「覇を唱えた」戦国大名は、ほとんどが主語または守護代出身でした。
信長の頃は、「家臣同然」の徳川家、「本当の家臣」であった羽柴(豊臣)家を除くと、



守護でも守護代でもなく、
巨大勢力となったのは、我が織田と・・・



毛利、北条、
伊達などか・・・
1582年当時、すでに北条家は「織田家に従属」であり、毛利も「もう少しで潰せる」状況でした。
伊達家は、織田家に誼を通じていましたが、「遠い陸奥の大名」でした。
伊達政宗が「暴れる前」であった当時、「大名として最下級レベルから天下を制した」のが信長でした。


信長が「織田家の天下」を思い描いていた真っ只中に、本能寺の変が勃発しました。
その結果、世の中が乱れに乱れた後に、「再び幕府の時代」となった日本。
| 年号 | 出来事 |
| 1185年 | 源頼朝、守護・地頭を設置 |
| 1192年 | 源頼朝、征夷大将軍に就任:鎌倉幕府創設 |
| 1333年 | 鎌倉幕府滅亡 |
| 1336年 | 足利尊氏、征夷大将軍に就任:室町幕府開設 |
| 1573年 | 室町幕府滅亡(諸説あり) |
| 1603年 | 徳川家康、征夷大将軍に就任:江戸幕府開設 |
| 1867年 | 徳川幕府滅亡(大政奉還) |
「平氏」を名乗っていた信長に対して、「源氏」を名乗っていた家康が幕府を開きました。
「幕府」という呼称は当時なく、「大公儀」または「大樹様」と呼ばれた将軍。
「信長の治世」は、ほんの短い時期で、近畿周辺で終わってしまいましたが、



私は、これまでの「幕府」のような形式
とは違うことを考えていた・・・
おそらく、信長は幕府とは異なる「新たな治世の形式」を考えていたでしょう。
仮に、信長が、朝廷に対して「征夷大将軍就任」を早々に望んでいたら。
そんな「ifの歴史」があったら、「本能寺」は起こらなかったかも知れません。


当時、織田信長と何度も間近で話した人物の一人にルイス・フロイスがいます。
フロイスは、イエズス会に毎年詳細な報告書を送付しており、様々な著作となって結実しています。
その一つが、ルイス・フロイス著作の「日本史」という書物です。
次回から、ルイス・フロイス「日本史」をもとに、信長の人物像や構想を考えてみます。

