謎の永野総長の「大坂冬と夏の陣論」〜不明の昭和天皇のお気持ち・永野軍令部総長「開戦を速やかに決定すべき」・資源確保の超重要性〜|陸海軍の迷走48・日米開戦と真珠湾へ

前回は「昭和天皇「両統帥部長意思表示なしは遺憾」〜毎日平和願った天皇・永野総長「勝利の算は我に多し」・もうすぐ完成の世界最強巨大戦艦大和〜」の話でした。

目次

永野軍令部総長「開戦を速やかに決定すべき」:資源確保の超重要性

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左上から時計回りに、昭和天皇、近衛文麿首相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長(国立国会図書館、Wikipedia)

後世の視点から見て、「対英米戦が事実上決した」1941年9月6日の御前会議。

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杉山メモ(杉山元 著、新歴史紀行)

「杉山メモ」には、昭和天皇の言動が細かく記録されています。

昭和天皇

先刻、原がこんこん述べたのに対し、
両統帥部長は一言も答弁しなかったが、どうか。

昭和天皇

極めて重大なことなりしに、
統帥部長の意思表示なかりしは、

昭和天皇

自分は
遺憾に思う。

おそらく、内心かなり不快であり、陸海軍統帥部に不信感を持っていた昭和天皇。

昭和天皇は、ハッキリと「遺憾である」とまで発言しました。

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大東亜戦争全史1(服部卓四郎 著、鱒書房)

「大東亜戦争全史」には、永野軍令部総長、杉山参謀総長の発言が極めて詳細に記録されています。

永野修身

従って、英米の聯合海軍もこれを我予定決戦海面に
邀撃する場合、飛行機の活用等を加味考量致しまするに、

永野修身

勝利の算は、我に多しと
確信いたします。

昭和天皇が、「果たして勝てるのか」極めて不安に思っている中、「必勝の信念」を告げた永野総長。

しかし、永野総長の前提は「邀撃=日本近海での艦隊決戦」であり、これは起きませんでした。

永野修身

帝国と致しましては、進行作戦を以て
敵を屈し、その戦意を放擲せしむの手段を有しませず、

永野修身

且国内資源に乏しき為、長期戦は
甚だ欲せざる処ではありますが、

永野修身

長期戦に入りたる場合、よくこれに耐え得る
第一要件は、開戦初頭、速に敵軍事上の要所及び資源地を占領し、

永野修身

作戦上堅固なる態勢を整うると共に、其の勢力圏内より
必要資材を獲得するにあり。

ここで、永野総長は、「英米本国に突き進むのは不可能」とハッキリ述べました。

さらに「長期戦は絶対に嫌だ」とした上で、「南方資源地帯獲得作戦こそ最上」と主張した永野総長。

永野修身

第一作戦成功の算を多からしむる
見地より其の要件と致します所は、

永野修身

第一には、彼我戦力の実情よりみまして、
開戦を速やかに決定致しますこと、

永野修身

第二は、彼より先制せらるうことなく、
我より先制すること、

永野修身

第三には、作戦を容易ならしむる見地より、
作戦地域の気象を考慮すること等が極めて必要で御座います。

要するに、「早期開戦」を強く主張した永野軍令部総長。

謎の永野総長の「大坂冬と夏の陣論」:不明の昭和天皇のお気持ち

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左上から時計回りに、山本五十六 連合艦隊司令長官、南雲忠一 第一航空艦隊司令長官、草鹿龍之介 第一航空艦隊参謀長、山口多聞 第二航空戦隊司令官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社、Wikipedia)

この頃、聯合艦隊は、真珠湾奇襲攻撃に向けて、着々と準備を進めていました。

真珠湾と地形が酷似していた鹿児島・錦江湾で、猛烈な訓練を続けていた聯合艦隊。

組織職務
海軍省軍政・人事
軍令部軍令
連合艦隊最前線の海軍戦闘部隊
帝国海軍の組織と職務

そして、名称通り「軍令を下す総司令部」であった軍令部の最高責任者であった永野総長。

永野総長の発言は極めて長く、要所をご紹介します。

永野修身

固より作戦の準備は、外交交渉の成行を
十分考慮致しまして、慎重之を進めて参る所存で御座います。

昭和天皇の「外交主体でやれ」という命令に対して、永野総長は「外交成り行き次第」と明言しました。

本来ならば、ここで終わるはずでしたが、

永野修身

尚一言付け加えたいと思いますが、平和的に
現在の難局を打開し、以て帝国の発展安固を得る途は、

永野修身

飽くまで努力して、
之を求めなければなりませぬ。

永野修身

決して避け得る戦争をも是非戦わなければと
いう次第では御座いませぬ。

永野修身

同時に又、大坂冬の陣の如き平和を得て、
翌年の夏には手も足も出ぬ様な不利なる情勢の下に、

永野修身

再び戦わなければならぬ事態に
立到らしめることは、

永野修身

皇国百年の大計の為、執るべきに非ず、と
存ぜられる次第で御座います。

最後に「外交主体ですが」と述べておきながら、さらに付け加えて「大坂冬の陣」論を切り出した永野。

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大坂の陣(Wikipedia)

永野総長の視点から見れば、当時の帝国の状況は、「大坂冬の陣の豊臣家」でした。

確かに後世の視点から見れば、豊臣家は、この「大坂冬の陣」で全てを投入すべきでした。

仮に「大坂冬の陣」で豊臣家が、「大坂夏の陣」と同様に滅亡に至ったとしても、そうすべきでした。

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右大臣 豊臣秀頼と征夷大将軍 徳川家康(Wikipedia)

ところが、当時まだ23歳(数え年)であり、合戦の経験もない豊臣秀頼は躊躇しました。

さらに、秀頼を囲む側近たちが無能であったため、「無様な決戦」となった大坂夏の陣。

永野修身

あんな大坂夏の陣のような
戦いなど、真っ平ごめんだ!

永野修身

やるなら、乾坤一擲、
大坂冬の陣!

永野修身

あそこで、豊臣家が思い切れば、
徳川に勝てたかもしれんのだ!

永野修身

我が帝国が取るべき道は、
大坂夏の陣か、大坂冬の陣か、ならば、

永野修身

当然、大坂冬の陣での
大決戦しかない!

永野総長の主張は、一言で言えば「早期開戦し、大坂冬の陣の乾坤一擲の大決戦」でした。

昭和天皇

・・・・・

この「大坂冬と夏の陣論」に対して、「杉山メモ」では「昭和天皇が興味を示した」と記載あります。

ただし、これは杉山参謀総長の見解であり、昭和天皇の言動は不明です。

いささか、唐突であり、飛躍が多い謎の永野総長の「大坂冬と夏の陣論」。

この「大坂冬と夏の陣論」に対して、昭和天皇は、どう感じたのでしょうか。

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