前回は「竹中重治 2〜智清将半兵衛の飛躍〜」の話でした。

黒田孝高の息子松寿丸(後の長政)を救った重治。
彼には残りの時間が少なくなっていました。
もともと体が弱く、労咳(結核)を患っていた重治は自らの人生の総決算として、秀吉の中国攻めに知恵を出します。
別所長治の三木城攻めでは、難攻不落であったため、兵糧攻めを秀吉に献策します。

三木城を完全封鎖しましょう。



それは良い案じゃ。
さすが半兵衛!
しかし、どうやって?



私に全てお任せを。
そして、三木城を完全に封じ込める陣立てを作ります。


「智清将」竹中重治の本領発揮です。
三木城を完全包囲し、さらに兵糧の遮断作戦も実行し、完璧な作戦を行います。
これ以後も秀吉は様々な城攻めで、包囲・兵糧攻めを行いますが、この三木城攻略において、基礎を確立しました。



なるほど。
このように包囲すれば、城は完全包囲・封鎖できるな。



このやり方で、落とせぬ城はないだろう。
そして、重治の助力により、「秀吉流攻城戦」の一つの到達点をつくりました。


かねてから病気がちだった竹中重治は、いよいよ病状が悪化します。
秀吉の療養の指示を拒否し、病の体を押して戦闘の前線にゆき、36の若さで陣没してしまいます。
重治が信長の命令を無視して救った、黒田松寿丸=長政はのちに関ヶ原の合戦で、戦場と調略で大活躍します。
父・如水譲りの調略の手腕を発揮し、福島正則らを家康側に引き込み、東軍勝利の立役者となります。


もし重治が信長の命令通り長政(松寿丸)を殺害していたら、この歴史はなくなります。
関ヶ原の合戦はまた違った様相になったでしょう。
重治は秀吉を助けて後に天下人にしただけではなく、家康の天下取りにも大きく関与していることになります。
秀吉が天下を取った時、その知謀を警戒された黒田孝高。
黒田は、その大きな功績に比すると「小さすぎる12万石の領土」を与えられ、中央から離れた豊前を領します。


もし、竹中重治が長寿であったら秀吉はどう遇したでしょうか。
野心がない重治であっても、秀吉はやはり同等の12〜15万石程度にしたと思います。
重治は、自分の育った美濃を強く所望するでしょう。


若き日からそばで支えてくれ、その功績は黒田孝高とは比較にならないほど大きな重治(半兵衛)。
この重治の要望を、秀吉も無碍に拒否はできず、西美濃を領したでしょう。



半兵衛と官兵衛(黒田)では、
わしに対する貢献度が全然違う。



半兵衛の言うことは、無碍にはできんわ。
ならば、ここでまた関ヶ原の合戦は大きく変わりそうです。
関ヶ原合戦時、西美濃に15万石程度を領する竹中重治が健在だったら、西軍に所属したでしょう。
そして5000〜6000人ほどの軍を重治が率いていたら、小早川秀秋の軍勢を突き崩したでしょう。
「ifの歴史」ですが、面白そうです。
あまりに早く早世した智清将 竹中重治(半兵衛)。
秀吉はじめ大勢の将士に惜しまれるも、とても大きな足跡を戦国の世に残しました。