戦国時代と江戸時代の狭間に生まれた今治城〜関白秀頼と将軍家康・「海と川の生き物が同居」の稀有な掘・瀬戸内海とつながる「水海城」〜|今治城2・伊予

前回は「日本三大水城の一つ・今治城〜「瀬戸内海がすぐそこ」の立地・今治城を築城した「築城の超名手」藤堂高虎〜」の話でした。

目次

戦国時代と江戸時代の狭間に生まれた今治城:関白秀頼と将軍家康

New Historical Voyage
今治城(新歴史紀行)

瀬戸内海を間近に控える「三大水城」の一つ・今治城。

日本三大水城

・今治城

・高松城

・中津城

三大水城は、いずれも瀬戸内海に面した土地にあることが大きな特徴です。

新歴史紀行
京・山城中心の日本列島(新歴史紀行)

今治城が築城された1602年は、戦国時代から江戸時代に移行する時期でした。

New Historical Voyage
右大臣 豊臣秀頼と征夷大将軍 徳川家康(Wikipedia)
豊臣秀頼

私が太閤 豊臣秀吉の
後継者である豊臣秀頼です。

1602年当時、日本のトップは秀吉の後継者である豊臣秀頼でした。

徳川家康

関ヶ原の戦いで、
この家康が覇権を握った!

翌年1603年には、徳川家康が征夷大将軍に就任し、徳川幕府を開設しました。

徳川家康

よしっ!
江戸に徳川幕府を開く!

この家康の「徳川幕府開設」は、当時かなりの強硬手段でした。

なぜならば、形式的には「家康は秀頼の家臣(重臣)」だったからです。

とは言っても、1593年生まれの秀頼は、1603年に11歳(数え年、以下同)でした。

いわば、現代の感覚では、小学生だった豊臣秀頼。

その一方で、1543年生まれの家康は「ちょうど秀頼より50歳上」であり、当時61歳でした。

「11歳と61歳」では比較にならず、そもそも戦国時代のど真ん中を生き抜いた家康。

徳川家康

秀頼に世が治められるとは
思えん!

徳川家康

力ある人物が
頂点に立つのだ!

家康が、こう考えるのは当然の論理でした。

「戦国時代はいつまでか?」は、様々な解釈があります。

1614〜15年の「大坂の陣」を持って「戦国時代の終了」という考え方も成り立ちます。

その一方で、大坂の陣は「江戸時代初期に起きた大乱」という考え方も成立します。

徳川家康

もはや戦国時代は
終わりなのだ!

「戦国の世を終わらせる」思いが強かったと言われる家康。

実際、関ヶ原直後から大坂の陣の間の期間は、比較的平穏で、大きな合戦はありませんでした。

この視点から考えると、戦国時代は「関ヶ原合戦まで」が妥当です。

そして、戦国時代と江戸時代の狭間に生まれたのが今治城でした。

「海と川の生き物が同居」の稀有な掘:瀬戸内海とつながる「水海城」

New Historical Voyage
今治城(新歴史紀行)

今治城付近の駐車場から、城内に向かいました。

大きな外堀が、ぐるっと城郭を囲い込む城で、とても優美な城です。

New Historical Voyage
今治城(新歴史紀行)

外堀が広いため、城内に至る道もかなり長く感じられます。

New Historical Voyage
今治城(新歴史紀行)

この城内への道を歩いてゆくと、右手に「今治城外堀と瀬戸内海がつながる水路」があります。

New Historical Voyage
今治城(新歴史紀行)

今治城の外堀は、瀬戸内海と繋がっているため、海の潮汐によって、海水が入ってくる時間もあります。

そして、海水が出て行く時間もある今治城。

天候や季節にもよりますが、概ね「毎日海水が入ってきて、海水が出て行く」堀です。

そのため、今治城の堀には「海と川の生き物が同居する」稀有な掘となっているのが特徴です。

この点だけでも、今治城が「極めて特殊な城」であることが分かります。

瀬戸内海とリアルに接続する今治城は、「水城であり海城である」城です。

この点では「海水城」というよりも「水海城」とも呼べる今治城。

いよいよ次回は城内に入ります。

New Historical Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次