明智光秀の新拠点・亀山城〜京都の隣国丹波一国を領する意味と近畿管領・本拠地を次々移転した織田信長・三度の織田家大移動・本拠地移転を「考えもしなかった」信玄や謙信〜|本能寺の変10・戦国時代の終焉

前回は「明智光秀叛逆と信長の方向性との大きなズレ〜信長と光秀のデザインセンス・織田家宿老たちの「国替え」の可能性・新生丹波国をつくろうと考えた光秀〜」の話でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)
目次

本拠地を次々移転した織田信長:三度の織田家大移動

織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

何度か拠点を移動した信長。

那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城(稲葉山城)→安土城と、最後の安土城が5ヶ所目です。

これまで3度の本拠地移転を実行してきた信長。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、最後に「大坂への拠点移動を考えていた」と言われる信長。

次は
大坂だ!

余も、もう
49歳(数え年)だ・・・

「人生50年」の敦盛が大好きで、若い頃から何度も何度も口ずさんだ信長。

これが最後の
余の本拠地移転になるかも知れん・・・

あの大坂の地は、堺は目と鼻の先であり、
瀬戸内海から異国へ続く・・・

大坂は、我が国
最高の地であり、余にふさわしい!

途中の小牧山城は、あまりに手こずった斎藤家との戦いの「一つの戦略上の本拠地移転」でした。

新歴史紀行
戦国大名 斎藤高政(義龍)(Wikipedia)

信長如き、
美濃に近づけさせん!

斎藤高政(義龍)亡き後も、美濃衆はかなり頑強でした。

少しでも美濃へ近い位置に
本拠地を置く!

そして、なんとしても
稲葉山城を陥落させるのだ!

という戦略でした。

そして、信長は7年ほどかかってやっと美濃奪取に成功

その意味では、「本拠地移転」ならぬ「本拠地を前線へ移動」とも考えられます。

家臣は、なかなか移動したがらず、なかには移転を渋った家臣もいました。

引っ越しは
大変です・・・

そういう家臣に対しては、信長は引きずるようにして連れてゆき、新たな拠点に移動したのです。

次の拠点へ
行くのだ!

早く
移動しろ!

こういうことが出来たのも、「信長ならでは」でした。

そして、信長の織田家がもともと「守護でも守護代でもない家柄」だったからでしょう。

本拠地移転を「考えもしなかった」信玄や謙信

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この「時期に応じて、本拠地を移動する」という発想。

信玄・謙信・氏康らは全く考えもしなかったことでした。

本拠地を
移転する?

そんなこと、
考えもしなかった・・・

我が武田の本拠地は、
ずっと甲斐!

私は
甲斐守護なのだ!

中世的な武田信玄は「甲斐守護」の名前にこだわったのでしょう。

新歴史紀行
1573-75年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

最盛期には甲斐・信濃・駿河に加え、上野・遠江・飛騨の一部まで広げた大領土を持った武田家。

織田家が「織田帝国」なら、武田家は「武田帝国」としか呼びようがありませんが、

ほう・・・
武田帝国か・・・

「甲斐守護が誇りであり、甲斐が大好き」だった信玄は、

いや・・・
「甲斐帝国」が良い!

と考えたでしょう。

戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

関東管領を継いで「関東の主」となった上杉謙信。

我が長尾家は、
代々越後守護代の家柄・・・

当然、私の拠点は、
越後の春日山城。

死ぬまで
変えるつもりはない!

本来「関東管領に就任」した時点で、関東に本拠地を移転すべきであった謙信。

本拠地を
越後から関東に移しませんか?

はっ!?
関東管領になったが、それとこれは別!

そして、「関東管領の職務」である関東鎮撫のために、何度も越山を繰り返した謙信。

拠点をコロコロ変える信長が、
どうかしている!

本拠地は「精神の故郷」であって、
変わるはずがない!

おそらく、守護・守護代の家柄であった信玄や謙信はこう考えていたでしょう。

対して、信長は、

本拠地は「精神の故郷」
ではない!

そんなことは、
どうでも良い!

とにかく、当時、斬新すぎるほど合理的発想を持っていた信長は、

本拠地とは
軍事拠点であり、経済拠点なのだ!

「本拠地とは何か」という思考性が、信玄や謙信とは全く異なっていました。

引っ越しすると、
新たな気持ちになり、とても良い!

この「新たな本拠地」で「新たな織田家」というイメージも持っていたでしょう。

明智光秀の新拠点・亀山城:京都の隣国・丹波一国を領する意味と近畿管領

織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、坂本城付近の「南近江の一部」の領主だった明智光秀。

新歴史紀行
延暦寺:阿弥陀堂・東塔(新歴史紀行)

そもそも「延暦寺焼き討ち」後の戦功もあり、延暦寺周辺の坂本を与えられた光秀。

坂本の地は、古来から由緒ある地であり、足利将軍家が京都から脱出した先でもありました。

坂本の地を与えられ、
5万石の領主だ!

さらに丹波攻略後に、初めて「一国丸ごと」与えられます。

一城の主人から、
一国の主人へ!

丹波国は、
明智の国!

光秀よ。
嬉しいか?

ははっ!
有難き仕合わせ!

さらに、
信長様に尽くします!

明智光秀 丹波攻略(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

我が新拠点は
亀山!

そして、亀山を拠点とした光秀。

丹波国を支配していた波多野氏の拠点・八上でも、赤井氏の拠点・黒井でもない地でした。

おそらく、「京に近い地域が栄えていた」とはいえ、波多野・赤井の拠点が栄えていた丹波。

丹波国は「重心が少し西に寄っていた」状況だったでしょう。

だが、元の拠点の
坂本も大事だ!

信長のような強権を発動すれば、

全員移動して、
国の形を変えるのだ!

拠点や栄えている場所などの「国の様相」が一挙に変わる可能性があります。

光秀はそういうことをしないでしょうし、その権限もなかったでしょう。

黒井城は播磨・但馬から程近く、毛利を攻める秀吉と共同戦線を張るにはちょうど良い位置です。

羽柴は
西を攻めているな・・・

光秀を前線に立たせて、秀吉と共に毛利を攻めさせるには、黒井城か八上城が良さそうです。

そして、その後に九州平定を任せるのを優先するなら、

光秀を中国・九州へ
向かわせたいが・・・

信長は、光秀に黒井城か八上城を本拠とさせたでしょう。

丹波平定後の光秀直轄領(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

京から「目と鼻の先」の「かなり近い」亀山城を光秀の拠点とさせた信長。

坂本城と亀山城の「京からの距離」は、同程度です。

さらに「坂本城と亀山城で京を挟んでいる」という異例の状況でした。

浅井・朝倉戦の時とは大きく変わった織田家。

光秀よ。
新たな気持ちになれ!

ははっ!
お任せを!

光秀に、さらなる活躍を期待した信長でした。

光秀は、自分のそばに
置いておきたい。

猿(秀吉)や権六(柴田)には出来ぬことを、
キンカン頭(光秀)はできる!

近畿は、
この光秀におまかせを!

それまで「織田家トップ」だった光秀が「トップから脱落しかけていた」説もあります。

1582年の織田家における「光秀の立場」は他の家臣よりも「一歩抜きん出た存在」だったのでした。

この「京を囲むように領国があった特異な地位」だった明智家。

信長は、まさかこの「京を守る」明智が、

信長を
討て!

本能寺の変 (歴史道vol.13 朝日新聞出版)

「自分に向かってくる」とは考えもしなかったでしょう。

次回は上記リンクです。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次