未来都市を生み出した男・明智光秀〜柴田勝家に続く「一国拝領」を成し遂げた光秀・京の隣国丹波〜|明智光秀12・人物像・能力・エピソード

前回は「未来都市を創った男・明智光秀〜「土木的発想」の秀吉vs「建築的発想」の光秀・秀麗なデザインの安土城と坂本城・欧州にもない城郭建築〜」の話でした。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

柴田勝家に続く「一国拝領」を成し遂げた光秀:京の隣国・丹波

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

やっと・・・
やっと丹波を平定した・・・

明智光秀が丹波平定に着手したのは、1575年のことでした。

この年には、長篠の合戦があり、織田家は武田家に痛恨の致命傷を与えました。

信玄由来の重臣たちや
武将たちを多数失った勝頼・・・

この戦いで、武田軍の東の
脅威はなくなったのだ!

この織田家にとって超重要であった長篠の戦いに、なぜか不参加だった明智光秀。

信長は、光秀に京周辺の守りを任せると同時に、西側の領土拡張を考えていました。(上記リンク)

他の大名家の戦いと織田家の戦いで大きく違うのは、抜群に卓越した信長の戦略眼でした。

武田に打撃を与えるために、
我が織田家の戦力を集中する!

そして、常に「多方面の攻撃・領土拡張」を考えていた信長は、光秀に対して、

光秀よ・・・
京の北西の丹波を平定せよ!

はっ!
この光秀にお任せを!

そして、光秀は波多野氏の造反など痛撃を受けながら、約5年かけて1579年に丹波を平定しました。

山城が多く、古来からの国衆・地侍が多かった丹波を攻めるために、大変な苦労をした光秀。

実際、「常に多方面攻撃」の織田家では、光秀を「丹波攻撃に専念」させてくれませんでした。

光秀よ!
松永弾正が謀反したので、攻めよ!

松永攻めなど多数の多方面の合戦に出撃しながら、やっと丹波を平定した光秀。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長・織田家重臣の生年

光秀の年齢には諸説ありますが、本能寺の変勃発時1582年に、55歳(数え年、以下同)と考えます。

そして、丹波を平定した1579年に52歳となった光秀。

当時、50歳を超えていれば「超ベテラン」でした。

光秀よ!
丹波国を与える!

ははっ!
ありがたき幸せ!

そして、丹波一国丸ごとを拝領した光秀。

織田家筆頭の重臣であった柴田勝家の越前拝領に続く「一国の拝領」でした。

名前拝領年拝領国
柴田勝家1575越前
滝川一益1582上野
明智光秀1579丹波
丹羽長秀
羽柴秀吉1580播磨
織田四天王の一国拝領

丹波にどのような
城を築こうか・・・

近江の我が坂本城を
超える城としたい・・・

「油が乗り切った」年齢を少し超えた光秀は、懸命に「新しい城」の縄張りを考えたでしょう。

未来都市を生み出した男・明智光秀:優美な亀山城の堀の意味

亀山城のイメージ(歴史人2020年7月号 KKベストセラーズ)

そして、光秀が晩年に、膨大なエネルギーと時間をかけて攻略した丹波の拠点として築いた亀山城。

「山の国」とも言える丹波国。

波多野氏の八上城はじめ、堅固な山城ばかりでした。

新歴史紀行
光秀の人生 2(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

山城ばかりであったこの丹波の地に、光秀は平城を築きます。

おそらく坂本城への愛着が深かったことと、水城の美しさを光秀なりに再現したかったのでしょう。

水城は
美しい・・・

そして、水運を活かせるので、
機能的だ・・・

光秀は「山の国・丹波」に、水城のような亀山城を築きました。

坂本城同様、亀山城のイメージは少し誇張もあるでしょう。

広い堀を縦横無尽につくり、水景とも言うべき典雅な「水の街」がつくられています。

堀は籠城戦の際に、防衛のために作られることが多いです。

亀山城の堀は「戦いを意識して縄張りした」というよりも、「街づくりを意識して作った」と思われます。

つまり、「水の街づくり」のための堀であると考えます。

もはや、織田家の力は
近畿周辺で卓越している・・・

丹波が強い勢力に
攻められることはあるまい・・・

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この少し後に当時としては、桁外れの巨城・大坂城を築城した秀吉。

私は城作りが得意で、
派手好みなのだ!

新歴史紀行
大阪(大坂)城(新歴史紀行)

現在の大阪(大坂)城は再建であり、「大坂の陣」で灰燼に帰したため、秀吉の頃の面影はありません。

このため、「秀吉の大坂城」もまた、ある程度資料をもとに想像するしかありません。

亀山城と比較すると秀吉の築いた大坂城などですら、少し無骨に見えてきます。

安土城図(歴史人2016年12月号KKベストセラーズ)

信長の気づいた華麗な山城・安土城に対して、優美な平城・水城の亀山城。

類まれなる芸術センスと機能性を併せ持つ、信長、秀吉、そして光秀。

新歴史紀行
戦国大名 加藤清正(Wikipedia)

後に、加藤清正や藤堂高虎たち「築城の名手」が現れます。

彼らと「築城術の独自性・先進性」を比較すると、信長、光秀、秀吉はいずれに「別格」です。

つまり、当時の日本において「究極の築城名手トップ3」が全て織田家の人間でした。

織田家の中心には、これだけの人物が揃っていたのでした。

そして、光秀もまた「間もなく天下平定」向けて邁進していたのでした。

新歴史紀行

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