前回は「未来都市を生み出した男・明智光秀〜柴田勝家に続く「一国拝領」を成し遂げた光秀・京の隣国丹波〜」の話でした。
「次の時代」を提示した男・明智光秀:最先端技術に対する深い造詣
山の国・丹波に築いた水城・平城の亀山城。
京の北西を固める
丹波を我が手に!
のちに光秀の拠点となります。
亀山城から
我が国の西に睨みを効かせる!
「完全な外様」であったにもかかわらず、織田家において異常なまでの急スピードで出世した光秀。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
信長より12歳も年上の柴田勝家は別格としても、滝川一益とほぼ同年齢です。
そして、織田四天王(諸説あり)の一員となり、勝家よりも重きをなすに至った光秀。
「足利家と織田家を結ぶ」男として歴史に登場した時、光秀は40歳でした。(諸説あり)
1568年頃に織田信長に目通りして、足利家家臣から織田家家臣へと鞍替えした光秀は、
出身の美濃から朝倉家の越前へと
赴き、長年を過ごした・・・
そして、坂本城を拝領して
近江を固めたのだ・・・
常に織田家の中核として活躍し、その築城術においては、抜群の存在感を見せつけました。
亀山城は信長が実現した壮麗な安土城とは、また別の壮麗さがあります。
高い芸術性と、あたかも未来都市かのような亀山城。
この城を実現した、光秀の建築的能力。
この極めて高い芸術性と技術力は、他の武将に比類がないでしょう。
まさに「未来都市の創造者 明智光秀」の大いなる力を発揮した街づくりでありました。
高い芸術性に加え、まさに「次の時代を提示した」とも言えるのが、この亀山城でした。
さらに不思議なのは、その異常なまでに高い最先端技術に対する深い造詣です。
極めて高い建築・土木技術を必要とする築城術。
光秀自身が、これらの建築・土木技術を身につけていたとは思えませんが、
ここをこのようにして、
堀をつくり・・・
具体的な未来都市をイメージするには、ある程度の素養が必要です。
光秀は、最先端技術に対して「一定の素養」と「深い造詣」を持っていたでしょう。
戦国No.2の築城術:織田信長との「戦国一」の争いと本能寺の変
歴史にifはありませんが、光秀が本能寺の変を起こさなかったら。
そのまま織田信長による天下統一が、1584年頃に成し遂げられていたら。
本能寺の変に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
・織田信長
・明智光秀
・羽柴(豊臣)秀吉
数多くの築城の名手が登場した戦国時代ですが、信長・光秀・秀吉は「名手」を超えた存在でした。
信長が考えていた、大坂の城・まちづくりに、光秀は大きく関わったことでしょう。
惟任光秀として、九州の博多付近で新たな拠点を光秀がつくる歴史があったら、非常に面白かったでしょう。
また、そこでは亀山城などの近未来都市がつくられたかもしれません。
それはまさに「歴史にifはないが、見てみたかった歴史」であります。
ロマンが詰まった都市が、生み出されたでしょう。
政治的能力の高い明智光秀ですが、彼の真骨頂は「抜群の軍事能力」にありました。
軍人・明智光秀は、芸術的センスと高い技術力をも併せ持つ存在であったのでした。
このセンスは武田信玄や毛利元就ですら、全くみられないセンスでした。
人は城、
人は石垣・・・
まずは人が最重要であり、
もちろん城も大事だ・・・
城は堅固で
実用的であることが重要!
その意味で、極めて貴重であった「明智光秀」という存在。
城に
頑強さ以外、何を求める?
この「未来都市を生む」という類い稀な能力は、信玄・謙信・元就らは、まったく持たない能力でした。
当時、光秀以外にこういうセンスを持ち合わせ「未来を創り出す」存在は、いなかったでしょう。
織田信長を除いては。
光秀めの、
築城術は大したもの・・・
だが、余の能力を
超えることはあるまい・・・
そのように考える時、信長と光秀の両者の歯車がどこかで食い違い、ずれ続ける状況となります。
それは「如何ともしがたいこと」だったのでしょう。
私は軍事能力、
政治能力など全てに自信がある!
そして、築城術にかけては、
信長様を除けば、私が一番だ!
こう考えていたであろう光秀。
築城術でNo.1になって、
私の考える「次の時代」をつくるには・・・
信長を
消すしかない!
こう思い至ったこともまた、本能寺の変の理由の一つと考えられます。