前回は「明智光秀と羽柴秀吉〜光秀と秀吉の軍略 1〜」の話でした。

中期〜後期織田家の「得意技」とも言える、「付け城戦略」あるいは「包囲網戦略」。

秀吉は中国攻めで、光秀は丹波攻めで、この方式で籠城戦を戦い抜きます。

そして、長い時間・エネルギー・費用を掛けて、強敵を次々と下してゆきます。
非常な苦労が多いものの、「合戦で敗北する可能性」を最小限にして、「確実に勝つ」戦略です。

この土木的な大規模な手法は、柴田勝家たちはあまり行っていません。
対して、秀吉・光秀が多く行っておりますが、どちらが先に大規模に実施したのか?は大いに興味があるところです。

戦略を指示したのは信長ですが、現地の取りまとめは、基本的に全て彼らに任されています。
秀吉・光秀ともにこの戦略を多く採用していることを考えると、性格・指向性は似ている部分もあったように思います。
ライバルであり、互いに競っていた関係だった秀吉と光秀。
しかし、やはり秀吉の方が信長に仕えている期間が遥かに長い意味でも、光秀と秀吉では秀吉の方に分があります。

本能寺の変当時、安土・京を中心と考え、羽柴・明智・柴田・滝川の配置を考えましょう。
東側には「柴田勝家・滝川一益」を配置します。
対して、西側に「羽柴秀吉・明智光秀」となります。
これは「敵対する大名を倒すための人選」でした。
柴田・滝川は長年の仲良しです。
羽柴と明智は共に、頭を使う方が得意であることから、実際は比較的仲は良かったのかもしれません。
のちに山崎の戦いで雌雄を決した、光秀と秀吉。
この二人の実際の織田家における立場を考える時、「後期織田家の本当の姿」が垣間見えるように思います。