前回は「広瀬武夫を崇拝して帝国海軍軍人目指した大西瀧治郎〜日清戦争の快勝と日露戦争・「格上の国家」だったロシア帝国〜」の話でした。

喧嘩で有名だった「喧嘩瀧兵衛」瀧治郎:同期・山口多聞との邂逅

1891年に生まれ、1904年〜5年の日露戦争で、海軍士官への道を決定した宇垣。

日露戦争では、ロシア語に堪能であり、「旅順閉塞作戦」を推進した猛将・広瀬が活躍しました。

私が、ロシア艦隊を
旅順湾内に閉塞させます!
ロシア艦隊の目の前にゆき、船を沈めて「ロシア戦艦を閉じ込める」作戦が閉塞作戦でした。
「死と隣り合わせ」である作戦に果敢に挑んだ広瀬は、



うぐっ!!!
ロシア艦隊の砲撃により、身体が粉々に砕け散って戦士しました。
そして、軍神となった広瀬。
この頃はなく、後に帝国陸海軍で頻繁に使われた「玉砕」と言う言葉がぴたりと当てはまる死に方でした。



俺も、軍神広瀬武夫のように
なり、帝国海軍の役立つ!


海軍将官のエリート養成機関である、超難関・海軍兵学校に入学した大西瀧治郎。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
37 | 小沢 治三郎 | 航空 | 南遣艦隊司令長官 |
40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 大西 瀧治郎 | 航空 | 第十一航空艦隊参謀長 |
40 | 福留 繁 | 大砲 | 軍令部第一部長 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
海兵40期には、後に大勢の将星が誕生し、「華の40期」と言われました。


ここで、大西青年は、「異常に気が合う」同級生に出会いました。



おいっ、大西。
今度は、俺が棒倒しで勝つぜ!



何の!山口!
俺が勝つに決まっているだろう!
「殴る、蹴る」は当たり前で、男子が熾烈な戦いを演じた「海兵の棒倒し」。
喧嘩っ早さと喧嘩の強さで、



大西は、
「喧嘩瀧兵衛」だな・・・
大西の名前「瀧治郎」から「喧嘩瀧兵衛」と言うあだ名をつけられた大西。
「喧嘩」で有名な大西青年は、一生懸命努力して、海兵を20位の好成績で卒業しました。
早期に航空隊に夢を賭けた大西瀧治郎:中島知久平への尽力


海兵卒業後、砲術学校や水雷学校で学んだ大西瀧治郎。
第一次世界大戦は1918年に終了し、この頃から「空母と航空機」の概念が具体化しました。
そして、世界に先駆けて大日本帝国と大英帝国が空母を建造しました。
「世界初」は諸説ありますが、1922年に大日本帝国が「世界初の空母」を生み出しました。
31歳で「国産空母」を見た大西は、



空母航空隊か・・・
航空機で、戦艦などを爆撃か・・・



これは、これまでの
大砲や魚雷とは全く異次元だ・・・
空母航空隊に対して、大いなる関心を持ちました。



これからは
海軍は航空機が中心になるだろう・・・
当時は、世界中の海軍で「大艦巨砲主義」であり、大日本帝国はその最先端でした。



海戦は
戦艦が主役に決まっているだろう!



いや、航空機が発達し、
空母からの発艦と空母への着艦が上手く行けば・・・



航空隊の攻撃力は
凄まじいだろう・・・



だが、航空機の爆弾なんかで
戦艦を沈められるはずがない!
ここで、「理系エリート」であった海兵卒業者の大西は、



いや、技術は
必ず進歩する・・・



航空機の性能も、
航空機の爆弾や魚雷も大いに進歩するだろう・・・
空母航空隊の未来を強く信じていた大西でした。


おそらく、当時の若き大西には、のちの九九式艦上爆撃機などを思い描いていたでしょう。
この頃、数少ない「航空派」の巨頭の一人として認識された大西に転機が訪れました。


1884年に生まれ、海軍機関学校を卒業し、大西と同じ海軍士官であった中島知久平。
海軍エリートは、海軍兵学校が主流でしたが、文字通り「機関」を扱う機関学校も同等でした。
いわば、大西にとって、先輩に当たる中島知久平が大西に相談を持ちかけました。



実は、海軍とは
別に民間の会社を設立し・・・



そこで、海軍や陸軍のための
航空機を作りたい・・・



その会社設立のための
資本集めに協力してくれないか・・・



お、それは
とても良いアイデアだ!
当時、陸海軍ともに艦政部が新たな艦船や飛行機を作っていました。
ところが、「役所仕事」であり、要望が支離滅裂であることが多いため、



意味不明の要望に振り回されず、
我ら技術者が中心となって・・・



新たな次世代航空機を
生み出したいのだ・・・
中島は、「民間で独立して、技術者が主導権を握った方が良い」と考えたのでした。



よしっ!
俺が資本を集める協力をしよう!
大西は、中島のために「新たな航空機会社の資本集め」に奔走しました。



大西のおかげで、
十分な資本が集まった・・・



これで中島飛行機を
設立する!



我が海軍のために、
素晴らしい飛行機を作ってくれ!
そして、中島知久平は中島飛行機を設立し、多数の飛行機を良い送りました。



ふぅ〜・・・
俺も大いに役立ったな・・・
一安心し、多いなる満足感を得ていた大西でしたが、



民間人の資本集めに、
誇りある軍人が関与した、だと!



おいっ、大西!
貴様、何考えているのだ!
軍人という立場ながら「民間人の資本集め」に協力することは御法度でした。



おいっ、大西!
始末書を書け!



はい・・・
始末書を書きます・・・
海軍省から大目玉を喰らった大西。
しかし、この「中島飛行機設立」は、大日本帝国海軍にとって大いなる財産となりました。
いわば、「民間から海軍航空機を推進」した大西瀧治郎。
大西こそ、「帝国海軍航空隊育ての親」と言って良いでしょう。