前回は「歴代の長宗我部氏が土佐を睨んだ岡豊城〜「凛々しすぎる」長宗我部元親像・高知における圧倒的龍馬パワー〜」の話でした。
長宗我部が飛躍した岡豊城:土佐に多数いた宗我部氏

高知県立歴史民俗資料館エントランス付近にある、一際凛々しい姿の長宗我部元親像。

私が一時は四国の覇王と
なった長宗我部元親ぞ!


岡豊城跡は、高知県立歴史民俗資料館の隣にあり、元親像の背面の階段を上がってゆきます。


一時は「四国の覇王」長宗我部氏の本拠地であり、「四国の中心」になりかけた岡豊城。
長宗我部氏は、ここ岡豊城から飛躍しました。


戦国期までは、現在の東京である江戸は「地方都市の一つ」であり、京・山城中心の世界でした。
そして、現在の、日本列島の主要な四島の中で、少し地味な感じがする四国。
その四国は、京・山城に比較的近く、いわば「近畿圏の一部」でした。
そして、海運によって瀬戸内海が開けていたため、阿波・讃岐は京の文化を強く受けた歴史があります。



岡豊城を拠点として、
我が長宗我部は発展してゆく!
鎌倉時代初期に「土佐に入国した」と伝えられる長宗我部氏。
元々は「宗我部」氏でしたが、どうやら、当時は宗我部氏が土佐には多数いたようです。
「宗我部」氏だった頃に、



土佐の周辺には、
同姓の宗我部が多すぎる・・・
宗我部氏が多数いた土佐でしたが、この「同姓が多い」のは鎌倉〜戦国期に多数見られました。
「宗我部」氏から長宗我部氏へ変名:謎の「長宗我部と香宗我部」


「戦国の覇王」である織田信長の出身である織田信長。
信長の家柄は、守護代織田家の重臣であり、それほど高い家格ではありませんでした。
・尾張北四郡:岩倉織田家(伊勢守)
・尾張南四郡:清洲織田家(大和守)



我が織田家は、
清洲織田家の三奉行の一人の家柄・・・



そこから、この織田信長は
飛躍したのだ!
織田信長が飛躍したきっかけを作ったのは、信長の父・信秀でした。
信秀の代に、急速に勢力を伸ばしたのが、重心とは言え「守護代・清洲織田家の下」の織田でした。
このように、全国各地、特に大名や有力者において「同姓が多い」現象があった鎌倉〜戦国の時代。
土佐で力をつけ始めていた宗我部氏は、



我ら宗我部氏と、
付近の宗我部氏を区別したい・・・
付近の宗我部氏と「区別する」必要を感じたようです。



我らは長岡郡を領し、
他の宗我部は香美郡を領しておる・・・



だから、我らは長岡の「長」をつけて
長宗我部へ・・・



そして、向こうの宗我部は香美の「香」をつけて
香宗我部へ・・・
ここで、元々「漢字が多めの姓」だった宗我部は、長宗我部と名乗るに至りました。



これで、我らは
長宗我部となったのだ!
そして、「漢字四文字」という当時も現代も「珍しく長めの姓」とした長宗我部氏。
この「長宗我部と香宗我部」の名前のプロセスは理解出来ますが、理由が不明です。
土佐の有力者であった宗我部は、一族で結託す方が強力になります。
鎌倉初期から、裏切りが多発した武家たち。
それでも、「同族」は頼りになる存在でした。
この「長宗我部と香宗我部」が必要であったならば、尾張守護代だった織田家もまた、



俺たちは、清洲織田氏であり、
岩倉織田とは区別したい・・・



だから、清洲の「清」を上につけて、
「清織田」にするか!
「清織田」などの、謎の姓(苗字)が多数登場したはずです。
同様に、武田家や今川家でも同じように「区別するため名前を変える」現象があったはずです。
こういう現象が「あったのかなかったのか」と言えば、「他にもあった」と考えます。
ところが、著名な大名家では「見られなかった」名前の変更。
謎の「長宗我部と香宗我部」に分かれた宗我部氏。
曽我部氏には、「区別しなければならない理由」があったのでしょう。



名前を分けたが、
香宗我部とは仲良く!
そして、元親の代には元親の弟である親泰が香宗我部に入り、香宗我部親泰となりました。


この謎めいた「変名」を遂げて飛躍した長宗我部氏の岡豊城跡。
石段は「整備された」箇所も多いと思われ、現在は鬱蒼とした森になっています。
次回は「長宗我部の魂」とも言える岡豊城を、さらに歩いてゆきます。
次回は上記リンクです。