前回は「ヒトラー率いるドイツに「誠心誠意」目指した松岡洋右〜魔術師のような強さ見せたヒトラー・「食糧確保」の常識的判断〜」の話でした。
ほぼ無言の近衛文麿首相:帝国政府と大本営大幹部の中で「若造」

独ソ戦を受けて、緊急招集された帝国政府・大本営の大幹部たち。
特に帝国政府側:近衛首相、松岡外相と大本営側:杉山総長、永野総長が仕切り役でした。

「大東亜戦争全史1」に、この頃の会議の模様が非常に細かく記載されています。
昭和天皇がトップだった当時の大日本帝国。
その一方で、政治上対外的には、内閣総理大臣がトップでした。

日本内では、帝国政府と大本営は「同格」でしたが、外国から見れば「総理がトップ」でした
近衛文麿・・・・・
それにも関わらず、「トップ」である近衛首相は、会議でほとんど話していません。
| 名前 | 生年 |
| 杉山 元 | 1880 |
| 松岡 洋右 | 1880 |
| 永野 修身 | 1880 |
| 近衛 文麿 | 1891 |
四人の大幹部のうち、最も若造であった近衛文麿。
偶然ですが、杉山総長、永野総長、松岡外相の3名は1880年生まれの同年齢でした。
対して、1891年生まれの近衛首相は、杉山、永野、松岡から見れば「小僧」でした。



私は総理だが、
全く重んじられていない・・・
すでに軍部の力が強い状況だった当時の帝国政府・大本営において、近衛はこう思ったでしょう。
「五摂家筆頭」近衛家の肖像





近衛首相は
サラブレッドであり、優秀であることは認める・・・
| ランク | 家格 | 家 |
| 1 | 摂家 | 近衛・一条・九条・鷹司・二条 |
| 2 | 清華家 | 三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭 |
| 3 | 大臣家 | 正親町三条・三条西・中院 |
| 4 | 羽林家 | 姉小路・冷泉・四条・正親町・持明院・ 今城・堀河・岩倉・綾小路・久世など |
| 5 | 名家 | 烏丸・坊城・梅小路・日野・北小路など |
| 6 | 半家 | 竹内(清和源氏)・西洞院家(桓武平氏)など |
昔から明確な「家柄ランク」があった日本の貴族社会。
明治維新によって、貴族の立場が大きく変わり、旧大名の華族が誕生しました。
それでも、とにかく「摂家」は超名門であり、中でも近衛家は圧倒的名門でした。



我が近衛家は
五摂家トップなのです!
つまり、天皇を除き、日本の血統において「最もサラブレッド」だったのが近衛でした。
さらに、東京帝大に入学し、京都帝大に転学した近衛は若い頃から優等生でした。
対して、松岡洋右は、米国で苦学の上、オレゴン大学を卒業。
当時も今も日本の大学は米国の大学の格下ですが、流石にオレゴン大学より東大の方が上です。
その一方で、苦学し、英語が堪能であり、傲岸な性格であった松岡は、



近衛首相は優秀だが、
今ひとつ統率力にかける・・・



大体、私より11も下の
小僧ではないか・・・
内心「近衛は小僧」と考えていたに違いないでしょう。
帝国政府を牽引し続けた「事実上トップ」の松岡洋右





そして誰よりも
米国のことは私がよく知っている・・・
オレゴン大学を卒業し、米国に住んでいた経験を持つ松岡は「自他共に認める米国通」でした。



近衛首相は、米国に
住んだこともなく、よく知らんではないか・・・



ここは、俺が近衛首相に代わって
日本の外交だけでなく・・・



日本政府を
引っ張ってゆかねばな・・・
誰に頼まれたわけでもなく、勝手に「日本政府を引っ張る」と考えていた松岡。
そして、もともと「軍人嫌い」だった松岡は、



大体、陸軍も海軍も
でかい顔をしすぎだ・・・



政治のことは、この松岡に
任せてもらう!
こう考えた松岡は、ヒトラー・ドイツに対して、



ドイツが相談してもしなくても、
こちらは誠心でやらなければならぬ!



誠心で彼を
つかむ必要がある!
「誠心誠意で」と帝国政府の外交方針を勝手に決定したつもりになっていました。
第二の二
帝国は自存自衛上南方用域に対する各般の施策を促進す
之が為対英米戦準備を整へ、先づ「南方施策促進に関する件」に拠理仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の体制を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず
第二の三
独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対ソ武力的準備を整へ自主的に対処す
独ソ戦争の推移帝国の為極めて有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す
第二の四
前号遂行に方り各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ
頭脳明晰であった松岡にとって「曖昧な表現」がひっかりました。



南方に対する基本態勢の維持に
「大なる支障なからしむ」という「大」とは何か?



大は大と言うことで、
小なる支障は当然である。



大なる支障なりや否やは、
その時にならねば分からぬ。
「大」は、個人の主観によるものであり、極めて曖昧です。
もはや「政府の会議」と言うよりも「禅問答」のような状況の中、



・・・・・
「あまりの曖昧さ」に不信感を持たざるを得ない松岡外相でした。
そして、松岡外相は、



陸軍と海軍の方針も
違うし・・・



仕方あるまい・・・
私の外交術で乗り切るか・・・
「自らの手腕で乗り切る」と考えたと思われます。



陸海軍案に対しては
根本的に意見がある。
「曖昧」であり、「陸海軍相互の食い違い」に対して「根本的に意見がある」と原則反対としながら、



然し大体に於て
同意である。
「もはや進めるしかない」と考えた松岡外相。



松岡さんは、
コロコロ変わるから・・・



念書でも
欲しいくらいだ・・・


そもそも、この2ヶ月前の1941年4月に松岡外相が、日ソ中立条約を強行したのも大きな問題でした。
それにも関わらず、その舌の根も乾かぬうちに、



ソ連を
攻めた方が良い!
最近まで「ソ連同盟を超推進」したのに、今度は「ソ連侵攻」を主張した松岡外相。
これに対しては、陸海軍も不信感を強めざるを得ず、



同意なら、それを
書いて出して戴きたい。
「同意書」を松岡外相に求めましたが、



書いては
出さぬ!
松岡外相は、「念書提出の要請」を一蹴しました。
肝心なことが決定されないまま、会議はこの後も続かざるを得ませんでした。
次回は上記リンクです。


