前回は「種子島鉄砲館と「戦国の風」〜島津の猛烈なパワーの源泉鉄砲・輝きを放ち続けた薩摩と周辺の島々・種子島銃を「国内生産」した八板金兵衛・日本刀の技術と鉄砲・鉄砲製造プロセス〜」の話でした。
一気に国内に伝播した火縄銃:銃の国産化を命じた種子島時尭
小学生の頃に、
1543年に種子島に
鉄砲が伝来しました・・・
と教わり、多くの小学生が本州・北海道・四国・九州以外の島で「初めて知る」島の種子島。
現代ではJAXAのロケット発射場もあり、ニュースでも種子島は比較的頻繁に登場します。
九州から「すぐそこ」の種子島ですが、訪れる日本人はそれほど多くないかもしれません。
歴史が好きな方でも、そうでない方にとっても「種子島といえば、鉄砲」です。
種子島について、最初に向かったのは種子島・鉄砲館でした。
古今東西の数多くの鉄砲を見ることが出来る鉄砲館。
ポルトガルから伝来した「外来の鉄砲」を見た種子島のボス・種子島時尭は、
その銃、
二丁買おう!
相当高額だったと思われますが、二丁を購入しました。
さらに、
この銃とやらを
作れるように研究せよ!
はっ!
かしこまりました!
周囲に研究して、「銃の国産化」を命じた種子島時尭。
戦国の本格的幕開けにピタリと登場した鉄砲
このメインとなる銃身を
作るのは、比較的簡単そうだ・・・
鋭利で極めて美しい日本刀を量産する技術を持っていた日本。
この部分は、知らない
構造だが・・・
そこは、
ネジというものを使います・・・
ポルトガル人に教えてもらったり、困難もあったものの国産化に成功しました。
そして、火縄銃は、作られる地名によって「堺鉄砲」や「国友鉄砲」などが生まれました。
1543年伝来に関しては「1542年説」もありますが、いずれにしても1542〜1543年に伝来しました。
中国では、鉄砲に近い銃がすでに昔から使われていた形跡があります。
鉄砲伝来から遡ること270年ほどの、1274年と1281年に日本に大挙襲来してきた元軍。
海の向こうの国は
倭か日本だかどちらでも良いが・・・
我が元に
屈服させよ!
当時の日本軍の規模・武器のレベルの「遥か想定外」であった元軍。
猛烈な数の
軍船で攻め込んできたな・・・
この武器は
なんだ?
当時の日本人が「知らなかった武器」も多数あった形跡があります。
ところが、その「元が持っていた最新鋭の武器」は、その後の日本でそれほど広まらなかったようです。
一方で、1543年という「戦国の本格的幕開け」にピタリと登場した鉄砲。
九州から近畿にかけて、猛烈な勢いで鉄砲が広まって行きました。
種子島の門倉崎と鉄砲:鉄砲を最大限活用した信長
1543年に種子島の門倉崎にポルトガル船が漂着して、一気に九州から近畿・関東まで広まった鉄砲。
当時、九州で圧倒的なパワーを持っていたのが大友宗麟率いる大友家でした。
鉄砲か・・・
これは時代を変える武器だな・・・
「いち早く鉄砲に目をつけた」のが大友宗麟でした。
海外との交易も南蛮文化も
大変興味がある・・・
当時、150万石ほどの石高を有していた日本最強の大名であった大友家。
このままいけば、「鉄砲を最大活用して日本を統一」したのは大友家となるはずだったでしょう。
ところが、当時は日本の中心であった近畿において、鉄砲に異常に執着した人物がいました。
とにかく
鉄砲を大量に集めよ!
「鉄砲といえば織田信長」と言われるほど、「鉄砲の大量かつ集中運用」を進めた織田信長。
我が織田家は
海外との貿易を抑えている!
鉄砲に必要な硝石は
我が国では、ほとんど産出出来んが・・・
海外から大量の硝石を
手に入れることが出来るのだ!
弾薬や硝石がなければ、「ただの鉄棒」となってしまう鉄砲。
織田家は、鉄砲と並んで弾薬や硝石を大量に用意することができる、「日本唯一の大名」でした。
そして、その「鉄砲を大量に活用できた日本唯一の大名」は天下人へ上り詰める寸前まで行きました。
ここ種子島の門倉崎は「日本の歴史が大きく変わる分岐点を生んだ」場所とも言えます。
戦国時代が好きな方は、ぜひ訪れて下さい。
次回は上記リンクです。