前回は「種子島の門倉崎と鉄砲〜鉄砲を最大限活用した信長・一気に国内に伝播した火縄銃・銃の国産化を命じた種子島時尭・戦国の本格的幕開けにピタリと登場した鉄砲〜」の話でした。
日本の歴史に「最も影響与えた島」種子島
戦国時代まで、京・山城中心だった日本の歴史と社会。
1600年の関ヶ原の戦いで、「徳川の時代」が到来しました。
いよいよ、
我が徳川の時代だ!
ここまで、
実に長き日々出会った・・・
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
上杉謙信(長尾景虎) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
豊臣(羽柴)秀吉 | 1537年 |
徳川家康 | 1543年 |
関ヶ原の合戦の時、58歳(数え年)出会った徳川家康。
織田信長:「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」
豊臣秀吉:「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ほととぎす」
徳川家康:「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」
江戸時代に、信長・秀吉・家康の性格を喩えた「ほととぎすの歌」があります。
「鳴くまで待った」
甲斐があった・・・
と当時家康が言ったはずもありませんが、確かに「待った」感が強い家康。
もともとは、信長の強力な同盟者として、共に勢力拡大を推進したのが家康でした。
織田殿とは対浅井・朝倉、
武田、本願寺と連戦であった・・・
1562年締結と言われる織田・徳川の清洲同盟(諸説あり)は、ずっと破綻せずに継続されました。
日本の戦国期に甚大な影響を与えた鉄砲。
その鉄砲を最大限活用したのが、信長及び織田家でした。
「徳川と鉄砲」は、あまり結びつく印象がありませんが、「織田の一角」でもあった徳川。
徳川家もまた鉄砲を重視し、鉄砲隊による軍事力を生かしたのでしょう。
このように考えると、本州・北海道・四国・九州を除くと、種子島の存在は際立ちます。
「鉄砲の種子島」は、日本の歴史に「最も影響与えた島」になりそうです。
とても美しい門倉崎:青い海と緑の自然と白い雲
鉄砲伝来が伝えられているのが、種子島の門倉崎です。
種子島の南の先端の方に位置する門倉崎は、屋久島にも程近い場所です。
九州から沖縄周辺には、数多くの島がありますが、大隅諸島は「島がまとまっている」感じがします。
さらに、比較的大きな島である種子島と屋久島がある大隅諸島。
古来から、九州との往来が盛んであった形跡があり、海外との窓口でもありました。
海が美しい門倉崎周辺は、非常に自然が豊かな地域です。
気候が温暖で、山にも平地にも至る所に緑が生い茂っています。
海は青々としていて、陸は緑が強い、まさに「風光明媚の鑑」のような門倉崎。
空に浮かんだ白い雲もまた、海の青と自然の緑と呼応して、映えるように感じられます。
海と繋がる浜も、海までの高さが高い崖もある地形豊かなエリアです。
この地に、1543年(1542年説もあり)ポルトガル船が漂着して、我が国に鉄砲が伝来しました。
ポルトガル船が漂着した門倉崎:鉄砲伝来の真相
「鉄砲伝来の地」として、門倉崎にはこれを記念した碑が建っています。
この先を進むと、かなり急な崖のエリアになります。
門倉崎の崖の先端からは、海の水平線が綺麗に見えて、「世界とつながる海」が実感できます。
門倉崎の先端に位置する、この場所は、海までの高さがかなり高い急峻な崖です。
ポルトガル船が漂着したのが、この崖付近なのか、あるいは浜の方だったのか。
崖付近であれば、船が接岸できないので、島人が「浜の方に誘導した」と考えます。
無限に広がるような水平線で、
おい・・・何か海外の船らしいのが
漂流しているぞ・・・
確かにそうだな・・・
この島に上陸させて、修理するのが良いだろうな・・・
「ポルトガル船が漂流していた」のを「発見した」のかもしれません。
古来から船の往来が激しく、カヌーほどの小さな船に乗って、周辺の島を往来していた形跡があります。
台風も多い地域なので、「ポルトガル船が漂着した」のも頷ける地域です。
一方で、こんな想像も出来ます。
鉄砲をポルトガル人から入手した種子島時尭。
ポルトガル人たちとは、
様々な交易をしてきた・・・
九州よりも我々の方が
ポルトガルや南蛮の文化や技術の知識がある・・・
だが、この銃という最新兵器は、
「時代を変える力」がありそうだ・・・
こう考えたであろう、種子島時尭。
大金で「二丁の火縄銃を購入」した種子島時尭は、「国産化」の方向を考えていたでしょう。
今後も、ポルトガルとは
交易を続け、新たな兵器や文化を仕入れたい・・・
こう考えると、種子島という島の重要性は高まります。
だが、それが公になると、
どこかの勢力から種子島が侵攻される可能性が高まる・・・
「種子島が南蛮文化・最新兵器が入手できる」ことが公になると、種子島が「超重要な地」になります。
そのような「超重要な地」は、大勢の大名が狙うでしょう。
そこで、種子島時尭は、
大っぴらではなく、密かに
ポルトガルなどとは交流を続けたい・・・
そのためには、「ポルトガル船が
いつものように来た」ではなく、何か良い表現の仕方がないか・・・
こうして、「自分の領土である種子島を守ること」を懸命に考えた種子島時尭。
ここで、閃きました。
そうだ!ポルトガル船が「いつも通り来た」ではなく、
「漂着した」ことにしよう!
すると、「たまたま鉄砲が伝来した」ことになり、
種子島が超重要な地であることは、公にならない!
このように、種子島時尭は考えたのでないでしょうか。
「ポルトガル船が漂着」して伝来した鉄砲。
その真相は、「ポルトガル船がいつものように来て、交易した結果」伝来した鉄砲かもしれません。
これは想像に過ぎませんが、歴史の真相というのは、こういうことも多いように感じます。
実際に門倉崎を訪れてみると、そんな想像もしたくなります。
歴史好きの方は、種子島鉄砲館と門倉崎をぜひ訪れてください。
次回は上記リンクです。