前回は「「楽観主義者は、どんな危険の中にもチャンスを見出す!悲観論者は、どんなチャンスにも危険を見出す!」ウィンストン・チャーチル〜ヒトラーの猛烈な勢い・ほぼ欧州全土がドイツの手に・忍耐強くバトルオブブリテンを制した男〜」の話でした。
軍は敵の案に入らぬように覚悟すべし!
戦国九州で最も智勇兼備の武将であった鍋島直茂(信生)。
戦国期に急速に勃興した龍造寺家を支え続け、最終的には肥前佐賀藩の藩祖(事実上)となりました。
その鍋島直茂は、
軍(いくさ)は敵の案に
入らぬように覚悟すべし!
こう言ったと伝わっています。
軍(いくさ)は敵の案に入らぬように覚悟すべし!
ここで、軍を「いくさ」と読むのはやや古風な雰囲気ですが、戦国期らしさがよく伝わります。
直茂が意味するところは、
戦(いくさ)・合戦では、
敵の案・采配・戦略に入らぬようにせよ!
これは、ある意味「当たり前のこと」です。
この「当たり前のこと」を戦国期有数の智勇兼備の将である鍋島直茂が言うところが「重い」と思います。
戦(いくさ)・合戦では、
敵の戦略・計略に入ったら終わりだ!
敵の戦略・計略に陥らないことが大事ということなのでしょう。
あまりにも急膨張した龍造寺家:龍造寺隆信の義弟・直茂
もともとは肥前の守護であった少弐氏の重心であった龍造寺家。
ところが、龍造寺家は主家・少弐氏の内紛に巻き込まれて、一気に凋落しました。
龍造寺隆信の頃には、「事実上滅亡していた」とも言える龍造寺家。
我が龍造寺は
守護代ですらない家柄だが・・・
俺が龍造寺を再興して、
さらに大きくしてみせる!
軍事的才覚を持ち、家臣を統御するカリスマがあった龍造寺隆信。
そして、少弐氏がガタガタになって肥前がガラ空き状況になると、
よしっ!
我が龍造寺が領土を広げるチャンス!
龍造寺隆信は「御家再興」とばかりに、猛烈な勢いで周囲を切り取りました。
肥前中心に龍造寺の影響力を一気に強めた龍造寺隆信。
その隆信の脇には、
隆信様の
補佐をしっかりしよう・・・
この直茂が、政治・軍事
など龍造寺の頭脳を司る!
隆信の「義弟」となった鍋島直茂が常に控えていました。
さらに、成松信勝ら龍造寺四天王と呼ばれる猛将たちが、
うおお〜っ!
我が龍造寺のため!
猛烈な勢いで暴れ回り、龍造寺の影響力は飛躍的に上昇しました。
当時の九州では、六カ国の守護を兼ねる大友家が超強力な存在でした。
宗麟自身の能力も高く、立花道雪などの名将が数多くいた大友家に「敵なし」の状況でした。
そして、肥前の守護代ですらない龍造寺家は「大友家の遥か格下」の存在。
ところが、超強力になった龍造寺家の力に隆信自身が、チャンスを見出しました。
ここは、大友から独立して、
我が龍造寺の旗を靡かせて見せる!
大友家から見れば「反乱を起こした」龍造寺家。
当然、大友宗麟は烈火の如く激怒し、
我が大友に刃向かった
龍造寺を叩きつぶすのだ!
龍造寺家の本拠地であった肥前・佐賀城に総勢六万もの大軍勢を投入しました。
龍造寺を完膚なきまで
潰せ!
多少の誇張があるとはいえ、「六万の軍勢」と言うことは実数で二万はいたことになります。
これほどの大軍勢に囲まれて「滅亡寸前」となった龍造寺。
しまった・・・
少し調子に乗りすぎたか・・・
ここで、龍造寺が大友に敗北していたら、戦国九州全体の歴史が変わっていたでしょう。
隆信様・・・
私が決死隊を率いて奇襲します!
頼んだぞ、直茂・・・
我らの運命は全てお前の肩に・・・
そして、「勝って当然」と思って油断しきっていた大軍勢の大友軍に小軍勢で奇襲した直茂。
ゆけっ!
大友家を叩き潰せ!
弛んでいた大友軍は、総大将で宗麟の弟・親貞が討ち取られる大惨敗を喫しました。
この「今山の合戦」に関する話を上記リンクで、ご紹介しています。
そして、一気に急膨張した龍造寺家。
若き頃の信長が率いた織田家を彷彿とさせるほどの猛烈な勢いがありました。
ノリに乗りまくっていた龍造寺家は、「急速」を超えた超急膨張を続け、
俺たちが
九州最強なのだ!
「五州二島の太守」とまで言われ、一時的には「九州最強」となった龍造寺家。
後世から見れば、どう考えても「危険な兆候」がありますが、知恵者・直茂すら、
少し勢いがありすぎるが、
このまま九州全土制覇か!
このような楽観的気持ちだったでしょう。
一気に凋落した龍造寺と直茂の奮闘:幕末の一角・佐賀藩へ
ここで、九州の名族・島津家が南から勃興してきました。
我が龍造寺は
鎌倉以来の守護ごわす!
鎌倉時代からの超名家であった島津家は、猛烈な軍事力で南九州を席巻していました。
九州の「北からのしあがった」龍造寺と「南から拡大続けた」島津。
大友は弱くなったし、
ついでに島津を叩き潰せ!
ここで、鍋島直茂たち有力家臣団の補佐もあるとはいえ、自分の能力に過信していた隆信。
暴風の様に北九州を席巻し、調子に乗っていた龍造寺家の話を上記リンクでご紹介しています。
龍造寺に従属していた有馬氏の造反を機に、島津と決戦を迎え、
我が龍造寺家は
25,000の大軍勢!
対する島津は
3,000程度だと?
笑わせるな!
そんな小勢で我が軍に挑むのか!
これは、鎧袖一触で
すぐに終わる合戦だな!
そして、「即勝利しかない」はずの島津との決戦が沖田畷で起こりました。
龍造寺を
おびきだして、奇襲するのだ!
な、何?!
こ、こんな馬鹿な・・・
ここで、完全に島津のペースに乗せられた龍造寺は総大将・隆信が討ち取られる大惨敗を迎えました。
・・・・・
そして、凋落を続けて消えてしまった龍造寺。
我が龍造寺家は
超強力であった・・・
全ての敗因は、
島津の戦略に完全にはまってしまったこと・・・
全てが島津の
ペースであった・・・
この「沖田畷の大敗北」のことが、直茂の脳裏に終生あったのでしょう。
そして、冒頭の言葉となり、慎重な直茂は龍造寺家と鍋島家のバランスを考え続け、
肥前は、我が鍋島家が
握るのが良いだろう・・・
最終的には、自らが支え続けた龍造寺を「潰す」決断をした直茂。
そして、事実上の佐賀藩藩祖となった鍋島直茂。
大藩であり、徳川幕府から長崎の防衛を任され続けた佐賀藩は最も先進的な藩となりました。
そして、明治維新の際には「薩長土肥」の一角を占めるに至った佐賀鍋島藩。
このさが鍋島藩の強力なパワーの源泉こそ、鍋島直茂だったのでしょう。