前回は「無国籍となった坂本龍馬〜封建制度における「脱藩」の意味・「道なき道」を切り拓いて歩いた伊予山中〜」の話でした。
坂本龍馬の「脱藩」と発想の大飛躍:封建制度における幕臣と藩士

後世の視点から見れば、「幕末」と呼ばれる1860年代。
それは、あくまで「未来から見た過去」の視点であり、1860年代初期は「徳川の時代」が続いていました。
病弱であったものの第十四代将軍・徳川家茂が大君として、国家を統治していた時代でした。

天子(天皇)が居続けた京は、事実上の日本の首都でした。
その一方で、徳川の時代が250年以上続いた当時は、「江戸が日本の中心」となっていました。

そして、幕末に向かう時代に土佐藩で生誕した坂本龍馬。

土佐藩士
坂本龍馬ぜよ!
下士とは言え、曲がりなりにも土佐藩士であった坂本龍馬。
龍馬は1862年、27歳頃まで「土佐藩士であり続けた」のでした。
名前 | 生年 | 所属 |
大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
「士農工商」の時代であり、「武士が頂点に立っている」価値観であった封建制度の時代。
そして、「武士であること」の保証をしていたのが、幕府または各藩でした。


幕臣は「幕府が身元保障する」ことで成立し、幕臣・旗本は各大名と同格でした。



私は
幕臣・勝麟太郎だ!
後に「龍馬の詩昇格」となる勝海舟は、幕臣の中でも出世頭でありました。
このような身分秩序の中、



私は土佐藩を脱藩して、
土佐藩士を辞めるぜよ!
土佐藩を脱藩して「土佐藩士を辞める」決断をした坂本龍馬。
つまり、江戸時代の身分秩序において「武士でなくなり、身元保証を拒否する」状況に自らを追い込んだ龍馬。
現代の感覚で見れば、龍馬は「無国籍」同然の立場となってしまいました。
その決断は極めて異質であり、発想の大飛躍でした。
坂本竜馬の「通りし道」の伝説:「龍馬」ではなく「龍馬」の謎


そして、大きく飛躍した発想を実際に実行した龍馬。



土佐藩を脱藩して、
土佐藩から脱出する!
上の地図を見ると、「逃避行の最終地点」下関まで、ほぼ最短ルートで到達しています。
公式記録がなく、多数の伝説がある「龍馬脱藩行」。
そのプロセスにおいて、当時の伊予(愛媛県」の山中を通ったのは間違いないです。


数ある「龍馬脱藩の道」の中のいくつかが、愛媛県川辺町に残っています。
実際に行ってみましたが、完全な山道であり、途中からは進むのが困難です。


「坂本竜馬の通りし道」という碑が立っていますが、



坂本竜馬が、
この辺りを通ったはずです・・・
龍馬がこの周辺を「通ったはず」という伝承が伝わるのみで、詳細は不明です。
ここで、少し気になるのは「龍馬」ではなく「竜馬」である点です。
単なる「略字だから同じ」かもしれませんが、正式には「龍馬」であるべきです。
この碑が建立された時期にもよりますが、気になるところです。


まさに「道なき道」であり、行き止まりを戻って見ると、石段がありました。
この石段を上がると少し視野が開けます。
筆者が訪問したのは真昼でしたが、「脱藩行」では夜の時間も多数あったはずです。



長州の
方向はどこぜよ・・・



星空の感じから
こっちのはずぜよ・・・
真っ暗な「道なき道」を突き進んだ坂本龍馬。
ここで碑が「龍馬」ではなく「竜馬」としているのは、その「謎」を示していると感じました。
龍馬の脱藩行の経路が不明であり、一つの伝承に過ぎない「大きな謎」であることを。
次回は上記リンクです。